仙台高等裁判所 昭和30年(う)762号 判決 1958年6月30日
本籍 福島県平市大字中神谷字南鳥沼七番地
住居 同県内郷市宮町代一四五番地
無職
鈴木光雄
大正一四年三月二一日生
右の者に対する騒擾・職務強要被告事件につき昭和三〇年九月一〇日福島地方裁判所平支部が言渡した判決に対し、検察官柴田孔三から控訴の申立があつたので、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役一年二月に処する。
原審における未決勾留日数中三〇日を右本刑に算入する。
理由
本件控訴の趣意及び答弁は、検察官宮本彦仙作成名義の控訴趣意書、及び弁護人竹沢哲夫外三五名作成名義、弁護人林信彦作成名義、弁護人高島謙一作成名義、被告人鈴木光雄作成名義の各答弁書にそれぞれ記載せられたとおりであるから、いずれもこれを引用する。
(本判決の用語例その他)
一、「地区委」とは日本共産党石城地区委員会の略称。
「朝連」とは在日朝鮮人連盟の略称、なお同連盟浜通支部を指す場合がある。
「矢郷労組」とは矢郷炭礦労働組合の略称。
二、日時につき月日だけを示すのは昭和二四年のそれ、日だけを示すのは同年六月のそれを指す。
三、何時頃と時刻を示すのは、すべて当時のサンマータイム(夏時刻)によるそれである。
四、「統公」とは原審統一組公判調書、「分公」とは原審分離組公判調書、「統証」とは原審統一組書証、「分証」とは原審分離組書証(以上のうち原審で取調べられなかつた被告人等については当審で取調べたので、その関係ではそれらは次の「控証」となるわけであるが、便宜上それらも「統公」「分証」等の元の呼称のままとする)、「控証」とは当審書証につけた呼称である。
原審公判証人本田正治の証言(統公四五冊八丁以下)とは原審昭和二九年一一月八日公判調書中証人本田正治の供述記載、当審証人本田正治の証言(控証三冊三丁以下)とは当審の証人本田正治に対する尋問調書中の供述記載を指し、被告人鈴木光雄の検察官に対する供述調書(統証四冊四〇九丁以下)とは被告人鈴木光雄の検察官に対する昭和二五年六月三〇日附供述調書を指す。その他これにならう。
或る被告人については書証の原本で証拠調をし、他の被告人についてはその謄本で証拠調をしたものは、すべて謄本として証拠に引用。
五、平市警察署玄関前における衝突の際群衆に対し拳銃を擬する署員があつたかどうかに関する部分の事項説明は、原審のいわゆる分離組に属する被告人等(同被告人等に対する原判決は右拳銃を擬する署員のあつた事実を認定していないから、同被告人等に対する検察官の控訴趣意もこの点にふれていない)については、その一部の答弁書及び当審で取調べた証拠に対するものである。
第一主要な問題点と当裁判所の判断の要点
一 事件の輪廓
本件は、昭和二四年四月一三日附長江久雄名義で道路一時使用許可をうけて設置し、矢郷炭礦争議問題等を掲載していた掲示板につき、同年六月二五日平市警察署長から道路交通上支障ありと認められて、許可取消とその撤去命令をうけたことに端を発し、日本共産党石城地区委員会はこれを以て共産党の政治活動に対する不当弾圧であるとして抗争し、当時経済九原則等の影響に基く経営合理化のため矢郷炭礦がなした従業員の大量解雇から生じた紛争に警察が警戒のため出動したことに強い反感を持つ党員、その影響下の労組員等を糾合し、同月二七日多数の群集が平市署に押しかけて交渉し、適当な場所をみつけて速かに移転する、移転場所は後日両者相談の上決定するという趣旨で妥結した。右交渉に際し、内郷、湯本両町警察署から応援警察官を派遣したこと等につき、群集は当日及び翌二八日両町署に押しかけて抗議し、翌二九日本田平市署長が部下及び地区委の一人の報告に基き、移転場所が七分通り借りられるとの見通しをつけ、明三〇日午後四時までに掲示板を撤去するよう命じ、撤去せねば強制撤去する趣旨を告げたところ、地区委側は右は協定の一方的破棄で共産党に対する弾圧であると憤慨して強硬に抗議し、右撤去命令の撤回を要求したが容れられずして、同夜地区委事務所で会合を開き、翌三〇日早朝から多数の党員、その影響下の労組員、朝連関係者等を動員し、午前一〇時半頃多数の群衆の一団が湯本町署に押しかけ、平市署に応援警察官を出さないこと等を言明させた後、午後零時半頃平市朝連浜通支部に赴いて待機し、朝からの日野方会合を経て午後二時過頃他の多数の群衆の一団が内郷町署に押しかけ、平市署に応援警察官を出さないこと等を強要して約束させ、その際署員に暴行脅迫を加えて午後三時半頃引きあげた。内郷町署を引きあげた群衆のうち、先ずトラツク一台に押し乗つた四、五十名が平市長橋町で下車し、午後三時半頃平市署前に到着し、うち七、八名が玄関口で署員と、入れろ、代表三名にしてくれと押問答しているうち、他のトラツク一台に押し乗つた四、五十名が同市署前に到着して合流し、うち二、三十名がワアツと同署玄関口に押しよせ、署内に押し入ろうとして警備の署員と押し合いとなり、警備指揮者の髪を掴んで引張り出して棒等で殴打し、これを助けようととび出した署員を次々に棒等で殴打し、蹴り、又二、三十名の者は投石して、乱闘となり、群衆に一名、署員に一〇名の一週間ないし三週間の加療を要する負傷者を出し、多数の窓ガラス等を破壊し、約五、六分で右乱闘は一応おさまつて、署長室で交渉がはじめられたが、急を聞いて待機中の前記朝連浜通支部の群集中一〇〇余名も馳付けて合流し、更に群衆は刻々増し、或は赤旗を振りスクラムを組み労働歌を高唱し、或は罵声怒号を発する等して気勢をあげ、掲示板問題の交渉は雨天の日を除いて三日間に移転するということで妥結したが、引続いて地区委側は署長の辞職、群衆の負傷者に対する治療費、矢郷争議の犠牲者に対する慰藉料等の要求事項を持出し、辞職問題で公安委員会を開けと要求した。他方、交渉のはじめは代表者、連絡員等が署内に入つたのであるが、その後署外の群衆も相当数立入り、雨も降つていて、午後六時頃には署長室のみで八〇余名数えられ、署内の群衆の数は二、三百名となり、更に三、四百名に増してゆき、途中多少減じ、午後一一時半頃交渉を打切つて一同引揚げる時は二、三百名であつたが、その間署内に立入つたこれらの群衆は、或は赤旗を振り労働歌を合唱し、棒で床を突鳴らし足で踏鳴らして拍子をとる者、或は罵声怒声をあげる者等あり、或は交渉情況の報告、激励演説をする者、これに応えて拍手し喚声をあげる群衆があつて喧騒を極め、又署員に対し、蹴る小突く等の暴行をする者、棒で窓ガラス等を叩割る者等があり、署長室では署長や公安委員に対し悪罵を浴せる者、やつてしまえ等脅迫的言辞をはく者等あり、更に公安委員に対し、殺してしまうぞと火箸を振上げた者があつたが、遂に午後八時半頃には同志の一人が逮捕留置されていることを知つた群衆中数十名が留置場前に押しかけ、うち十数名が監房を破壊して同志を奪還し、その監房に看守巡査を閉込める等の暴行を逞うし、なお同署玄関柱に大赤旗二本が交叉掲揚されてあつて、人民警察ができたなどと呼号する者等があり、市内各要所には棍棒等を持つた群衆警備隊を配置して見張り警戒に当らせ、自動車等の検問をなすなどしたという事案である。
二 原判決の判断の要点
前記事実につき、原判決のなした判断の要点は次のとおりである。
(1) 本件掲示板設置の許可は地区委に対しなされたもので、長江久雄個人に対しなされたものではない。
(2) 平市警察署長が道路交通上支障ありとして右許可の取消及び撤去命令をなし、更に代執行をする旨の通告をしたことは、いずれもその理由に乏しく不当な措置といわざるを得ないのであつて、地区委側或はこの問題に関心を有する労働者が、かかる署長の措置を以て共産党の政治活動に対する弾圧であるとし、或は労働者に対する弾圧であると解したこともやむを得ない事情があつた。
(3) 本件三〇日における群衆の行動は、地区委の指導の下に平市署の襲撃が計画され、湯本、内郷両町署に対する行動が、その目的遂行の一環として平市署の孤立化を企図したものと認むるに足る証拠なく、その謀議が行われたと検察官の主張する地区委事務所会合や日野方会合の内容は、平市署長の掲示板撤去命令を不当とし、この命令を撤回させるために交渉するに当り、多数人の応援を得てこれによつて交渉を有利にする目的の下に、できるだけ多数の同志糾合を計つた程度のものと認め得るに過ぎず、検察官が謀議計画のあつたことを示すものとして挙げる諸種の事象に徴しても、平市署を襲撃する謀議或は計画があつたことは認められない。のみならず、平市署において群衆によつて暴行脅迫等の不法行為がなされることを予期して多数の動員を計つたものであり、またこれによつて同署に赴くに至つた群衆についても、かかることを予期していたものであるとも認められない。
(4) 本件三〇日湯本、内郷両町署に押しかけた群衆の行動は、平市署襲撃の意図計画に基いてなされたものとも、或は平市署における暴行脅迫等を予期してなされたものとも認められないから、両町署における行動は、平市署における暴行脅迫等の行動との関係において、その準備行為又は一罪の関係に立つものとは認められない。
(5) 湯本町署における群衆の暴行等は極めて軽微であつて、到底騒擾にあたるとはいえないし、内郷町署においては、暴行等の所為に出た者相互の間に共同暴行の意思があつたかは疑わしいばかりでなく、その暴行等の程度において騒擾罪の成立ありとはなし得ない。
(6) 平市署前においてなされた暴行等の所為と、その後群衆が署内に立入つてから後署内においてなされた暴行等の所為とは、意思の継続或は連絡があるものとは認められず、それぞれ別個の法律判断に服するものと解せざるを得ない。
(7) 平市署前に群衆が押しかけた際行われた暴行は、偶発的事情に基くもので、即ち先着の群衆中の七、八名が金田警部補と押問答をしているのを見た後着の群衆が、警察側で一切の入署を拒否し或は交渉に応ずる意思がないものとの誤解に出たため、敢えて署内に押入ろうとしたので、署員との間に押合い、揉合いとなり、その際署員が警棒で突き殴り、そのため群衆の一人が頭部に裂傷を負い流血をみるに至り、かかる態度に憤慨して同警部補を引出して暴行を加え、引続き他の署員にも暴行を加え、更にその頃署員中に拳銃を擬する者があつたこと等から、玄関口等に投石するに至つたものである。右署員に対する暴行或は投石をなした四〇名前後の者の間だけには共同の意思があつたと認められるが、未だ多衆による該地方の静謐を害する危険がある程度の暴行がなされたものとは認め難い。
(8) 同署内に群衆が立入つたのは、午後五時半頃雨のため署長の許可が出たから入れと指示する者があつたことが原因で一斉に立入つたものであつて、一概に責められない状況があり、これを以て不法に同署を占拠し、或は暴行脅迫等の所為をなす意図があつたものと認めることは困難で、当初は署内に入り雨を避けながら交渉を待つ意図以外に他意はなかつたものと認めるのが相当であり、又群衆が署内に立入つた後署内に滞留し、その間或は激励演説、中間報告をなし、或は赤旗を振つて労働歌を合唱し、これに和して棒で床を突き足踏みして拍手をとる等喧騒に亘る行為をなして署長室の交渉を支援する態度に出たことを以て、同署を不法に占拠する意図或は暴行意思の現れとみるべき不退去の行為があつたものとみることは困難であると共に、玄関前の柱に赤旗二本を交叉して掲げ、又見張りのため警備員を配置して署内に立入る者や通行人を誰何している状況を外観的にみれば、恰も群衆が同署を不法に占拠しているかのような観を呈しているが、前者は群衆の意図に基いてなされたことを認めるに足る証左なく、後者は専ら内郷の暴力団に対する自衛の措置で、これらを以て群衆がかかる占拠の意思を有していたものとは認められない。そして、署内における暴行脅迫等の所為については、留置場の場合は偶発的に、その他の場合は個々的、散発的に、且ついずれも少数の者により、署内に滞留して交渉支援の態度に出た大多数の群衆の意思とは関連なしになされものと認められ、留置場に押入つた十数名だけには共同意思があつたものと推認されるが、その十数名の者が右個々的、散発的暴行をなした者と意思を共同にしたとは認め難く、個々的、散発的暴行に出た者相互間に意思の共同があつたものとも認め難い。また、右留置場に押入つた者或は個々的、発散的暴行に出た者を以て、いずれも多衆と認めることは困難であると共に、そのなした暴行等の程度においても、該地方の静謐を害するに足る危険のある程度のものとは認め難い。
以上の次第で、原判決は騒擾罪の成立を否定したのであるが、右諸点のうち最も重要なのは共同意思の点であつて、本件暴行脅迫の所為はこれをなした者以外の他の群衆の意思とは関連なしに行われたものとなし、結局適法な大衆動員による交渉、或は抗議の過程における少数者の偶発的、個々散発的の暴行脅迫とみているのである。
三 検察官の主張(控訴趣意)の要点
右に対する検察官の主張の要点は次のとおりである。
(1) 本件掲示板設置の許可は長江久雄個人に対してなされたもので、地区委に対してなされたものではない。
(2) 平市警察署長が道路交通上支障ありとして右許可の取消及び退去命令をなし、更に代執行する旨の通告をしたことは、いずれも不当ではなく、六月二七日のいわゆる協定は、交渉ないし陳情の範囲を遙かに逸脱した不法状況下になされ、有効な協定が成立したものではないのであり、又地区委側も交通上支障のあることはこれを認めているのであつて、署長の右措置を以て、共産党の政治活動に対する弾圧、或は労働者に対する弾圧であると解したとしても、かく解したことに何等やむを得ない事情があつたとは認められない。
(3) 本件三〇日における群衆の行動は、地区委幹部等が予め傘下の組織大衆を糾合、動員して、実力を以て湯本、内郷、平の三署を制圧する旨の共謀を行つたことによるもので、地区委事務所会合や日野方会合等の会合内容は、少くとも、掲示板撤去命令を撤回させるため、全党員及びその影響下の組織大衆をできるだけ多数動員し、その団体及び多衆の威力を背景にあくまで要求の貫徹をはかり、その方法として先ず平市署への応援を封ずるため湯本、内郷両町署を実力により制圧した上、平市署へ押しかけ、若し平市署長が要求に応じない場合は暴行脅迫の手段に出ることをも予想したものである。掲示板問題をめぐる事態の推移、特に右二会合を中心とする前後の諸事情、検察官の挙げる諸事象を検討すれば、地区委幹部等は、交渉の決裂を予想しながら多衆の実力を以て警察を制圧するため、傘下の組織大衆の動員を協議決定したものとみるのが相当で、これを以て単に平和的交渉のための大衆動員を協議したものに過ぎず、暴行脅迫を予期したものとは認められないという判断は極めて不合理である。
(4) 本件三〇日における群衆の行動は、地区委の指導下に計画されたものであり、湯本、内郷両町署に押しかけた群衆の目的意図は、それぞれの分担に従つて平市署に対する制圧を容易ならしめるため、その目的遂行の一環として実力を以て応援警察官の派遣を阻止することにあつたもので、両群衆は合体して平市署に対し暴行脅迫をなしてこれを制圧したものであるから、それは一個の群衆の一つの目的意図に出た不可分一体の一個の行動と観察すべきものであり、法律的には一個の騒擾とさるべきものである。
(5) 湯本町署に対する群衆の暴行脅迫は、場所的にも、時間的にも、一個の群衆の集団的共同行為で、その程度も約二時間に亘つて警察の機能を停廃し、該地方の静謐を害する危険性を生ぜしめたもので、その行動は本件騒擾の始期と信ずる。内郷町署に対する群衆の暴行脅迫は、署長室における強要及び古口巡査部長等に対する暴行脅迫も、その群衆の構成や場所的、時間的関係からみて、一個の群衆の集団的共同意思の存することは明らかであり、その程度も一時間に亘り警察の機能を停廃せしめ、該地方の静謐を害する危険性を生ぜしめたものである。
(6) 平市署前においてなされた群衆の暴行等の所為と、その後群衆が署内に立入つてから署内でなされた暴行等の所為とは、その間意思の継続又は連絡があるものであり、即ちこれらは一つの集団の予期した一連の行動であつて、署前の暴行等は署内に侵入するためのもので、その侵入行為は同時に暴行とみるべく、侵入後の不法占拠自体が物に対する暴行で、その暴行の上に更に幾多の暴行等が群衆の共同意思により敢行されたものであるから、署前における暴行等の所為と署内におけるそれとの間には聊かの空白もなく、従つてその間意思の継続又は連絡があつたことが明らかである。
(7) 平市署前において群衆のなした暴行は、警察官の挑発に基因する偶発的事情に基くものではなく、それは警察に対し実力を以て対抗することを企図する集団の臨機応変の行動で、警察側が集団の要求に応じなければ必然的に執らるべき予定の闘争手段であつたと認められる。即ち、先着の群衆中の七、八名が金田警部補と押問答しているうち、トラツクで乗りつけた後着の一団がこれに合流し、多衆を恃んで一挙に署内に侵入しようとした群衆が、それを阻止しようとする金田警部補をやにわに引きずり出して殴る、蹴るの暴行に出でたもので、群衆の一人が負傷したのは金田警部補が引出された後のことであり、更に同警部補を救援するため出た他の署員にも次々暴行を加え、又玄関口等に投石するに至つたものであつて、その際群衆に対し拳銃を擬した署員はなく、結局右衝突の契機は群衆が多衆の威力を以て敢て署内に押入ろうとしたのが原因である。そして、集団の力を以て平市署を制圧し、強引にその要求を押通そうとする共通の目的意図を持つた、しかも既に内郷町署を暴行脅迫を以て制圧してきた統制された組織大衆であるから、平市署においても暴行脅迫の所為に出ることを予期したものと認むべきは当然であり、かかる群衆が署内に押入ろうとして惹起した暴行等につき、その全員に共同意思が存在したと認むべき事理の当然であるといわねばならない。なお、署前における暴行等のみを切離しても、その程度は署員一〇余名の負傷者を出す等その警察機能を喪失せしめ、該地方の静謐を害する危険性を生ぜしめたものである。
(8) 平市署内に群衆が立入つたのは、代表者と称する五名が侵入した後、逐次午後五時頃までの間に、降雨の状況如何に拘らず、既に市署側の意思を無視して署長室、警備経済両事務室、客溜等の署内に計百数十名の者が侵入したもので、署員は群衆に圧倒されて群衆が自由に署内に出入し得る不法状態を現出しており、署長が代表者から入署許可の交渉を受けた事実はないと共に、かかる爾後に入署許可の交渉をなすというようなことは無意義であり、又降雨が強くなつた後立入つた群衆も、既にそれまで署前にあつて署内の群衆と呼応し、同署内外一団となつて同署を制圧していたのであるから、仮令雨宿りの意思もあつたとしても、その署内立入りが適法化される理由はなく、しかも狭隘な署内に四、五百名に上る巨大な群衆が、その要求貫徹のため押入つて署内を制圧した上、労働歌を怒号し、棍棒で床を突き、床を蹴り、署員を小突き廻す等して、長時間に亘り署内に滞留したのであるから、かかる滞留自体が建物に対する暴行で、それはその群衆の共同意思に出たものであることは明らかであり、玄関前柱に大赤旗を交叉掲揚し、市内各要所に、主として、応援警察官に対処するため警備隊を配置したことは、集団による不法占拠の意図を示すものである。そして、署内における暴行脅迫等の所為については、留置場の場合は留置場に押入つた十数名のほか、留置場前に押寄せた七、八十名に共同意思を認むべきは当然であるばかりでなく、群衆の実力による被疑者奪還と、署長室における代表者の即時釈放要求とは密接な関連を有するもので、それは署長室における群衆の行動と留置場及びその附近廊下における群衆の行動とは、互に関連し一体となつて行われたものであり、その他の少数者による暴行脅迫等も、交渉支援のためなした群衆の喧騒行為と包括して観察すべきものであり、いずれも一つの集団の互に関連した共同行為であつて、狭隘な署内で或は相呼応し、或は同時に同一行動となつて行われているものであるから、群衆全員につき共同意思を認むべきは当然のことである。また、署前の暴行に引続いて署内に立入り、暴行脅迫の限りを尽して約八時間に亘り同署を不法に占拠し、剰え留置場を破壊して被疑者を奪還する等して警察機能を喪失せしめていること自体、一地方の静謐を害すべき危険性を具体的に発生せしめているものであり、それは、警察の治安維持という特殊性からも当然いい得ることであり、平市署を中心とする三署周辺一帯の静謐を害すべき具体的危険性を生じたものである。
四 当裁判所の判断の要点
当裁判所の本件に対する判断の要点は次のとおりである。
(1) 本件掲示板設置の許可は、当時関係事務担当者であつた警務主任柳田警部補が警備主任をも兼務していたことや、申請書に記載されてある目的、方法等の特殊用語から、少くとも同警部補において、申請人長江久雄は共産党員であつて党の宣伝活動を目的とするものであることが当然判らなければならないとみられても仕方のない事情にあつたのである。地区委が本件許可を受けたものと断定することは証拠上足りないものがあるが、平市警察署側で真実この種事務取扱の実情等から許可当時は気付かず、本田署長もいわゆる盲判を押したとしても、その後、同地区委がこれを使用していることが判つてもこれを黙認しており、その点の条件違反を責めなかつたのであるから、同署長は同地区委に対し許可したものとしての効力を肯定し維持したものと認めるのが相当である。
(2) 六月初旬以後は、ラツシユアワー等には道路上に掲示板を見る人が相当多くなり、時には或る程度交通上支障があつて、交通整理をしたようなこともあり、許可当時予想した以上の人だかりがあつたことが証拠上肯認し得られ、交通事故の起らぬうちに速かに撤去さすべく、同月二五日に右許可の取消及び撤去命令を出し、二七日に代執行の通告をしたことは、その措置の当否はともかく、またその書面の記載等に瑕疵はあるけれども、未だ違法の程度ではなく、一応適法といえないことはない。二七日の協定は到底正常な交渉の結果とは認められないが、本田署長はとにかく、その後右協定を前提として掲示板問題を進めているのであるから、右協定の成立を一応是認したものと認めるのが相当である。右協定の法律的意味は、本田署長が従来の黙認を正式に許可の相手が地区委であるものとしての効力を肯定したこと、地区委側は許可の取消及び撤去命令に同意したこと、なお移転場所が見つかれば代執行の戒告等は書面でなく口頭で足りるという趣旨をも包含するものと合理的に解釈されること等である。二九日移転場所が七分通り借りられる見通しがついたので、本田署長が地区委側に対し、右の見通しだから明三〇日午後四時までに掲示板を撤去するよう命じ、撤去せねば強制撤去する趣旨を告げたのは、法律的には代執行の戒告と解すべく、それに瑕疵はあるけれども、重大且つ明白な瑕疵とは認められないから無効な行政行為ではないのみでなく、必ずしも一応適法なものといえないことはない。しかし、この措置は、当時の事情はともあれ、なんとしても妥当を欠くものといわざるを得ないのであつて、他に適切な処置がなかつたとはいえない。右の場合、原判決のいう如く「警察の措置を不当とし、その不当の措置に対し交渉或は抗議すること、その際大衆を動員して大衆による交渉或は抗議の形をとること自体何等違法ではあり得ない」としても、それは社会通念上何人も首肯するに足る程度の、平和的かつ秩序ある方法によつて行われる場合に限らるべきである。
因みに、右警察の措置が仮に違法であるとしても、その違法適法が客観的に未確定の状態にあるにおいては、これに対し関係大衆に許される抗争の限度は、社会通念上暴行脅迫に至らない他の方法によることであり、本件大衆による交渉ないし抗議の過程においては、後記の如く大多数の群衆間に共同意思の存在が認められる暴行脅迫が行われたのであるが、それは当時の社会情勢を考慮に入れても許容の限度を遙かに超えることはもちろん、平市署前衝突の際の警察側の態度には、後記の如く急迫不正の侵害行為等なく、その他警察側が実力を以つて掲示板撤去にとりかかる等、権利の侵害が切迫現在してやむことを得ざるに出でたものとは到底認められないと共に、法益権衡の原則等からみても、その違法性を阻却すべき事由ありとは到底認められない。
(3) 本件三〇日における群衆の行動が、地区委の平市署を襲撃する謀議に基くものと認むるに足る証拠はない。地区委事務所会合や日野方会合の内容は、掲示板撤去命令を撤回させるため全党員及びその影響下の組織大衆をできるだけ多数動員し、その団体及び多衆の威力を背景にして、あくまでその要求の貫徹を企図したことが認められ、その方法として、先ず平市署へ応援警察官の派遣を封ずるために、湯本、内郷両町署に押しかけ圧力をかけて応援警察官を出さないことを確約させた上、平市署へ押しかける分担を決めたことを推認し得る程度である。検察官の挙げる諸事象に徴しても、平市署襲撃の謀議計画があつたとは認められないのはもちろん、若し平市署が要求に応じない場合は、検察官のいわゆる実力を以て警察を制圧する意味の暴行脅迫の手段に出ることをも予想したものと認めることは困難である。尤も、掲示板問題をめぐる事態の推移、特に右二つの会合を中心とする前後の諸事情を検討すれば、群衆を動員した地区委幹部において、若し平市署側で要求に応じない場合は、警察官との間に小競合位の衝突が起きるかも知れないという程度の未必的予期があつたと認めるのはむしろ当然であるが、実力を以て警察を制圧する意味の、いわば騒擾性を認識した予期があつたものと認めるのは証拠上無理と考える。
(4) 本件三〇日湯本、内郷両町署に押しかけた群衆の行動は、いずれも平市署における交渉或は抗議を妨害されないため、同市署に対する応援警察官の派遣を阻止する意図の下になされたものである。その意味においては、両町署における行動は平市署における行動の準備行為といえないこともない。しかし、両町署に押しかけた各集団が相互間に連絡統制があり、平市署に押しかけて合流したとしても、地域的に異つた場所に出動した際暴行脅迫が行われたのであるから、それが多衆といい得るか、公安危害性を生じたかどうかは、各集団ごとにこれを判断すべきもので、その全体がこれに当るかどうかによつて決定すべきではない。従つて、三署における各暴行脅迫の行動の関係は単純一罪の関係には立たないが、それが各騒擾にあたる場合は包括一罪を構成するものである。
(5) 湯本町署における群衆の暴行脅迫は、大多数の群衆間に共同の意思は認められるとしても、その暴行脅迫の程度は比較的軽微であつて、騒擾にあたるとはいい難い。内郷町署においては暴行脅迫の所為に出た者その他大多数の群衆間に共同意思の存在したことは認め得られなくはないが、その暴行脅迫の程度は未だ必ずしも一地方の公安を害する危険性を帯びるに至る程度になつたものとは認め難く、本件事案の全体からみて未だ騒擾にあたらないものと解するのが相当である。
(6) 平市署玄関前の衝突に際し、署前に集つた群衆約一〇〇名中四、五十名の者が警察官を棒で殴打し、蹴つたり、投石したりして乱闘中、他の群衆の大多数はワツシヨ、ワツシヨ、と掛声を発したり赤旗を振つたり等して気勢を添え、これに同調し、少くとも右暴行を認容する意思のあつたことが肯認し得られる。ところで、騒擾罪の成立に必要な共同意思は、多衆の合同力を恃んで自ら暴行又は脅迫をなす意思ないしは多衆をしてこれをなさしめる意思と、かような暴行又は脅迫に同意を表しその合同力に加わる意思とに分れ、集合した群衆が前者の意思を有する者と、後者の意思を有する者とで構成されているときは、その多衆の共同意思があるものとなるのである。そして共同意思は共謀とは同意義でなく、必ずしも多衆全部間における相互認識の交換までは必要としないし、また事前の謀議あることは必要でなく、合法的に集合した群衆に中途からかかる共同意思の成立するを妨げない。されば、現実に暴行した四、五十名のみでなく約一〇〇名の群衆の大多数に共同暴行等の意思の成立したことを認め得るのである。そして、右乱闘が一応おさまつた後も、同時にその共同意思が全面的に消滅したのではなく、右群衆の大多数は乱闘の結果を背景に、更に多衆の不法な威力を示して相手方をして応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させる気勢を示す雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容すると共に、事態の発展や相手の出方如何により、時と場合によつては更に暴行脅迫等の所為に出るかも知れず、その暴行等の所為に出る者は多衆の威力を恃んでなすもので、他の群衆はこれに同調し、少くともこれを認容するという未必的共同暴行脅迫の意思を持ち、代表は交渉し、他の群衆はこれを支援する態度をとつたことが証拠上諸種の事象から肯認し得られ、急を聞いて待機していた朝連から馳付けて合流した約一〇〇余名の群衆や、その後刻々馳付けた群衆の大多数も棒を持つた多数同志や署前の乱闘の跡や話を見聞きし、或は幹部の激励演説を聞くうち、署前の衝突を認識して、前記の雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容すると共に、同様の未必的共同暴行脅迫の意思を持つて、右交渉を支援する態度に出たことが証拠上認められる。かくて、間もなく相当数の群衆の署内侵入となつて現われ、それが不法占拠の状態に発展して六時間余継続し、その間随時随所に行われた暴行脅迫や、或は派生した留置場の被疑者奪還となつて現われたものである。されば、署前においてなされた暴行等の所為と、署内においてなされた暴行脅迫の所為とは、共同意思の継続或は連絡がないとはいえないのであつて、それは一個の法律判断に服すべきものである。
(7) 平市署前に群衆が押しかけた際行われた暴行は、あれほどの事態になるとは予期しなかつたという意味においては偶発的といえようが、群衆が署内に押入ろうとしたのは後着の群衆が誤解したがためであり、署員等に傷害を加えたのは署員の方で群衆の一人に裂傷を負わせたのが原因であり、玄関口等に投石するに至つたのは拳銃を擬する署員のあつたのが主因であるという事情は認められない。即ち、先着の群衆中の七、八名が代表三名にせよと制止する金田警部補と押問答しているうち、後着の群衆がトラツクからとび下りて合流するや否や、いきなりそのうち二、三十名の者がワアツと喚声をあげて玄関口に殺到し、署員の制止をきかず多数をたのんで強いて署内に押入ろうとしたのが契機であり、強いて押入ろうとする群衆と、これを阻止しようとする署員との間に押合いとなり、群衆中には棒でかかる者があり署員も警棒で押しつけたりしたので、「やつてしまえ」と叫ぶ声があり、いきなり金田警部補の髪を掴んで引張り出して暴行を加えたものであつて、群衆の一人が裂傷をうけたのは金田警部補が引出された後の出来事であり、血を見た群衆は益々いきり立つて、次々に金田警部補救出にとび出してくる署員を取囲んで棒等で暴行を加え、署員の出てくる玄関口等に投石しはじめるに至つたものであることが証拠上肯認されるのであつて、その際拳銃を群衆に擬する署員のあつた事実は認められない。右の経緯で、警察側の態度には急迫不正の侵害行為はもちろん挑発刺戟的行為はなく、群衆側の所為には正当防衛を以て目すべき余地は存しない。なお、現実に暴行した四、五十名のみでなく約一〇〇名の群衆の大多数に共同意思の認められることは前叙のとおりである。
(8) 同署内にいわゆる代表者、連絡員以外の群衆が立入つたのは、午後四時頃からで、連絡員として逐次侵入しはじめ、午後四時半頃には幹部のうちに「われわれの税金で建てた警察だ、構わないから皆入れ」という者があつて、相当数の群衆が侵入し、午後五時前後までに署長室に二、三十名、警備、経済両事務室に計四、五十名、客溜に二、三十名が侵入して、両事務室や客溜の群衆は赤旗を持込み、労働歌を合唱し、激励演説をする等騒然としており、署員は呆然としてなすところを知らず、午後五時半頃署外に残つている群衆中から幹部に対し「雨が降つているからわれわれも入れろ」という声があつて、幹部は署長の許可した事実がないのに署長が許可したものとして許可が出たから入れと伝えたので、更に女を先頭に多数の群衆が侵入し、その頃から署内の群衆は遽かに喧騒を極め、署外の群衆と呼応して、赤旗を振り労働歌を怒号し、棍棒で床を突鳴らし、署員を小突き廻す等して、いわゆる交渉支援の態度に出で、その頃代表幹部により警察を占領したとして署玄関柱に大赤旗二本が交叉掲揚され、「人民警察ができた」などと叫ぶ者があり、これを見て玄関前にスクラムを組んだ一団や、客溜の群衆の大多数は「これで、はじめてわれわれの警察ができた」と言合い、幹部の中間報告や激励演説があると、これを聞いた群衆は拍手喝采する状況で、午後六時頃には署内の群衆は二、三百名となり、その頃内郷から暴力団が来襲すると伝えたものがあつて、幹部の指揮により主としてこれに備えるために、市内各要所に棍棒等を持つた数十名の見張り警備隊が配置され、その後暴力団が来ないことが判り、夜になつてから殆んど専ら応援警察官に対処するため警備隊の配置が続けられ、署内の群衆は更に増減して午後一一時半頃まで右の状況で署内に滞留したものである。右の有様で代表幹部から署長が許可したから入れといわれて立入つた群衆も、その大多数は真に許可がでたものと信じたかは疑わしく、多衆の不法な威力を恃んでの交渉を支援する意思で立入つたもので、その前後における署内の右交渉支援のためにする喧騒状況等からみて斯く信じたとはみられないのであつて、雨宿りの意思もあつたことはその不法性に消長をきたさない。そして、このような署内に侵入した群衆が最初から同署を不法に占拠する意図があつたとは認め難いが、少くとも赤旗を交叉掲揚した時から代表幹部中にこれを不法占拠する意思があり、他の群衆の大多数はこれに同調し、又は不法占拠の状態にあることを認識しながらこれを認容していたものであることが肯認し得られ、不法占拠が建物に対する暴行であることはいうまでもない。また、署内における暴行脅迫の所為については、その大部分が不法占拠の状態継続中に行われたものであるが、そのうち留置場の被疑者奪還の場合は、はじめからかかる事態が起るとは予期しなかつたという意味では偶発的であるが、その暴行等の所為に出た者は多衆の威力を恃んでなしたものであり、留置場内に押入つた十数名に共同意思のあるのはもちろん、「同志を奪還せよ」との叫びを聞いて留置場前に押しかけた数十名にも、これに同調する共同意思が認められ、署長室における代表幹部等もこれを認容していたことが肯認し得られる。その他の署長室、両事務室、客溜等における暴行、脅迫、器物毀棄も、これを行つた者は少数であり、随所に行われたものではあるが、多衆の威力を恃んでなしたものであり、代表幹部を含む他の群衆の大多数もこの程度の暴行、脅迫等は、先にも述べたように、これを認容する未必的共同意思の既に存していたと共に、現にこれを認容していたことが肯認されるのである。
そして、署前の衝突で署員一〇名は加療一週間ないし三週間を要する傷害を負わせられ、この一撃で他の署員は全く圧倒され、次いで、二、三百名ないし三、四百名の群衆による不法占拠状態となつて六時間余継続して、玄関に大赤旗を交叉掲揚し、市内各要所に棍棒等を持つた見張り警備隊を配置し、剰え留置場の被疑者は奪還される有様で、市署の警察機能は殆んど全く喪失して、さきには国警県本部に応援警察官の派遣を要請し、夜半には消防団約二〇〇名を以て市内の治安維持をはかるに至つたものであつて、右多衆の暴行脅迫は、平市署を中心とする該地方の公共の静謐を害する危険性を発生せしめたことはいうまでもない。国警平地区警察署はあつても、群衆の別動隊や隣接する朝連等を顧慮して、自署の警備に手一杯だつたのである。ところで、多衆の暴行脅迫が群衆の暴動に発展して社会の治安を動揺せしめる危険又は社会の治安に不安動揺を生ぜしめた事実は必要とするものではないが、騒擾罪の性質に鑑み、多衆の暴行脅迫が相当程度に達し、一地方における公共の静謐を害する危険性を帯びるに至る程度のものであることを要するものと解するのが相当と考える。そのような危険性を帯びるに至る程度の暴行脅迫は集合した多衆の内容と密接不可分の関係にあるのである。そして、その多衆とは多数人の集団を指し、一地方における公共の静謐を害するに足る暴行脅迫をなすに適当な多人数であることを要するのである。本件の場合右の要件をもみたすものである。なお、署前の衝突乱闘、これを背景として不法占拠、その不法占拠中に行われた留置場における被疑者奪還騒ぎのいずれをとつても、それは多衆であると共に、その暴行脅迫は一地方の公安を害する危険性を帯びるに至る程度になつたものと認められる。
五 結語
本件掲示板問題につき本田平市署長のとつた最後の措置は、当時の事情はともあれ、なんとしても妥当を欠くものといわざるを得ないのであつて、他に適切な処置がなかつたとはいえない。地区委員長鈴木光雄等が本田署長の命令に抗議してあくまでこれを撤回さすべく、傘下組織大衆の動員をした時は、実力を以て警察を制圧する意味の、いわば騒擾性を認識した暴行等の予期があつたものとは認め難い。しかし、平市署に押しかけて玄関前で警察と衝突した際、群衆の大多数に共同暴行等の意思が成立し、乱闘が一応おさまつた後も、その共同意思が直ちに全面的に消滅したのではなくて未必的共同暴行等の意思を持ち、急報に接し待機場所等から馳付けた群衆の大多数も同様の未必的共同意思を持つと共に、いずれも右乱闘の結果を背景に、更に多衆の不法な威力を示して、相手方をして応待の如何によつては身体等の危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させる気勢を示す雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容し、代表は交渉し、他の群衆はこれを支援する態度に出で、間もなく群衆が署内に侵入して喧騒を極め、共同意思による不法占拠の状態(玄関に大赤旗を交叉掲揚、市内各要所に見張り警備隊を配置)に発展して六時間余継続し、その間署内においていずれも共同意思による随時随所に行われた暴行脅迫と留置場の被疑者奪還がなされたのである。そして、その共同意思を持つた群衆は多衆であり、その暴行脅迫は該地方の公共の静謐を害する危険性を発生せしめたもので、ここに騒擾罪の成立ありとなさざるを得ない。
第二当裁判所の判断の説明
その一 控訴趣意第一点について
騒擾罪は多衆が集合して暴行又は脅迫をなすによつて成立するが、その暴行又は脅迫は、集合した多衆の共同意思に出たものであり、いわば、集団そのものの暴行又は脅迫と認められる場合であることを要し、その多衆であるためには一地方における公共の平和、静謐を害するに足る暴行脅迫をなすに適当な多数人であることを要し、その暴行又は脅迫の程度においても、一地方における公共の平和、静謐を害する危険性を帯びるに至る程度のものであることを要すると解する。
多衆の暴行脅迫が群衆の暴動に発展して社会の治安を動揺せしめる危険又は社会の治安に不安動揺を生ぜしめた事実はこれを必要とするものではないが、騒擾罪が一地方における公共の平和、静謐をその保護法益とする本質に鑑み、多衆の暴行脅迫が相当の程度に達し、一地方における公共の平和、静謐を害する危険性を帯びるに至る程度のものであることを要するものと解するのが相当であると考える。そのような危険性を帯びるに至る程度の暴行脅迫は、集合した多衆(共同暴行脅迫の意思を持つ多数人の集団)の内容、即ち人数はもちろん、構成員の質(性別、成少年の別、組織訓練ある者か烏合の群衆か等)、兇器類、集団の目的、場所、時等その集団のもつ公安危害の危険性に関係ある諸事情と密接不可分の関係にあるのであつて、或は単純な暴行脅迫で十分である場合もあろうし、更にそれ以上の強力な行為によつてはじめて充たされる場合もあるであろう。判例(大審院大正二年(れ)第一五五八号同年一〇月三日判決)が、「多衆とは多人数の集団を指称するもので、一地方における公共の静謐を害するに足る暴行脅迫をなすに適当なる多数人なることを要する」としているのは、右の意味において多衆の意義と共に暴行脅迫の程度をも判示しているものと解さなくてはならない。
騒擾罪は群衆による集団犯罪であるから、その暴行又は脅迫は集合した多衆の共同意思に出たもの、いわば集団そのものの暴行又は脅迫と認められる場合であることを要するが、その多衆のすべての者が現実に暴行脅迫を行うことは必要でなく、群衆の集団として暴行脅迫を加えるという認識のあることが必要なのである。この共同意思は、多衆の合同力を恃んで自ら暴行又は脅迫をなす意思ないしは多衆をしてこれをなさしめる意思と、かかる暴行又は脅迫に同意を表しその合同力に加わる意思とに分たれ、集合した多衆が前者の意思を有する者と後者の意思を有する者とで構成されているときは、その多衆の共同意思があるものとなるのである。共同意思は共謀ないし通謀と同意義でなく、即ち多衆全部間における意思の連絡ないし相互認識の交換までは必ずしもこれを必要とするものではない。事前の謀議、計画、一定の目的があることは必要でないし、また当初からこの共同意思のあることは必要でなく、平穏に合法的に集合した群衆が、中途からかかる共同意思を生じた場合においても本罪の成立を妨げない。そして、共同の意思といつても認識があればよく、確定的共同意思でなくとも未必的共同意思があれば足るのである。
原判決は、署前における衝突の場合は、その暴行は偶発的になされたもので、署前に押しかけた群衆全員に共同の意思があつたものとは認められず、警察官に対する暴行や庁舎等に対する投石の実行行為をなしたとみられる四〇名前後の者にのみ、その状況からみて共同暴行の意思があつたものと認められるとし、留置場における被疑者奪還の場合は、その暴行は偶発的になされたもので、留置場内に押入つた十数名の者についてはその状況からみて共同暴行の意思があつたものと推認されるが、その際留置場前の廊下に押しかけた数十名の者が、その押しかけた行為のみによつて等しくかかる意思があつたものとみられ得るかは疑わしいのみでなく、その際群衆中に暴行に出ることを制止した者があつたことによつても等しくかかる意思を認めることは困難であるとし、その他の署内における暴行脅迫等の行為はいずれも個々的散発的で、少数者によりかかる行為がなされる際、群衆中にこれに同調する動きがあつたと認められる証拠がないとして、大多数の群衆の意思とは関連なしになされたものとしている。右に徴すれば、原判決は、論旨のいう如く、共同の意思を以て共謀ないし相互共通の意思と理解しているやの疑がなくはないけれども、むしろ共同意思の成立存在についての事実認定の問題にかかつているものとみるのが相当である。
以上説明の次第で、原判決に法律の解釈適用の誤りがあつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかなものとは、未だ必ずしも認め難い。論旨は結局理由がない。
その二 控訴趣意第二点中動機原因に関する主張について
一 論旨は、本件掲示板設置のための道路一時使用許可は長江久雄個人に対し与えられたもので、地区委に対し与えられたものではない旨主張する。原判決は右許可は地区委に与えられたものである旨判断している。
1 右許可が地区委に与えられたものとする証拠に、被告人長江久雄の原審における供述(統公四三冊一三七丁以下)、同鈴木光雄の原審における供述(統公四二冊五七二丁以下)、及び鈴木光雄の検察官に対する供述調書(統証四冊四一四丁以下)があり、なお、証第三号道路一時使用願同許可書の記載に、目的が宣伝活動、方法が壁新聞とあり、長江久雄の肩書住所が平市大町一八番地(これは地区委事務所の所在地)となつていて、別人の筆跡で「巾一尺、長さ一間半」と加筆挿入され、出願年月日は西暦の一九四九年四月一三日で、許可月日は四月一五日となつている。ところで、長江久雄の原審における供述によれば、「地区委では地区委員の長江に手続を一任し、長江は二回市警察署に赴き、最初日共で掲示板を建てたいが、丸通の所の場所を貸して貰いたい旨きくと、柳田警部補が政党に貸した例がなく、書類は必要でなく特に許可を受ける必要はないからというので、ああそうかと帰つてきたが、考えてみると矢張り書類の上ではつきりさせておいた方がよいと思い、一両日後再び市署へ行つて色々話し、その際同警部補から従前の例がなく特に共産党では色々問題が出て困るからというような理由で、個人名義にしてくれと強いて言われるので、そのように諒承して書類の形式や手続は先方で書いてくれ、手続して直ぐ許可書をその日に貰つて来たもので、申請日と許可日が違つているのはよく判らないが、とにかく二回目の時直ぐ許可書を貰つて来たものであり、許可が要らないと言われたのに許可の書類を貰つておいた方がよいと考えたのは、鈴木光雄とも相談したものでなく、自分一人の考でやつたもので、ただあとで経過を報告しておいた」というのである。鈴木光雄の原審における供述によると、「共産党の名で許可を貰いに行つたが、党ということでは面倒であつて許可に長くかかるだろうし、結局同じだから長江個人名義にしておいた方がよいと、警察の方から柳田警部補からだつたと記憶するが言われたのである、最初から警察の許可が要るというつもりで手続に行つたもので、手続は署で調べてくれということで署へ行けばわかると思つた」というのであるが、鈴木光雄の検察官に対する供述調書によれば、「掲示板を建てる前に長江との間であつたと思うが、何処に建てようかという話が出て、その手続を長江に頼んだところ、長江は警察へ行つて許可を受けて来たという話であつたから、早速委員会で掲示板を建てたが、長江の名義で許可を受けたか地区委の名義で許可を受けたのかその点はつきり聞いていないので、自分は地区委で許可を受けたものとばかり思つていて、後日掲示板の問題が起きてから長江名義で受けている事実が判り、これはまずいなと思つた」というのである。右鈴木光雄の原審における供述は、同人の検察官に対する供述調書と対比して措信し難く、長江久雄の前記原審における供述は、その供述内容自体からみて不自然なところがあつて、直ちに全面的に措信採用することは困難であり、これらと右鈴木光雄の検察官に対する供述調書や前記証第三号の記載を以ては、後記証拠に照し、未だ地区委が本件許可を受けたものと断定するのは、証拠上なお足らぬものがあると考える。
2 これに対し、原審公判(統公三二冊二七丁乃至二九丁裏、一三一丁裏、一三六丁、一四五丁裏、一四七丁裏)及び当審(控証三冊三丁以下)証人本田正治、原審公判(統公三二冊六四四丁裏乃至六五三丁)及び当審(控証五冊三丁以下)証人伊藤徳雄、原審公判(統公二三冊三四三丁以下)及び当審(控証四冊三丁以下)証人柳田藤雄、当審(控証四冊一二五丁以下)証人山口学の各証言によれば、「道路一時使用に関する警務事務の当時の実情は、道路使用の許可を受けさせることにしてから約半年で、事務も多忙で、さして重要な事務でもなかつたこと等から、関係事務担当の警察主任の下に交通係山口内勤巡査が申請書を一見して場所が交通上支障ないとみれば、同巡査が署長印を押捺してそれ以上はいわゆる盲判で許可書を交付し、多忙な場合等は警務主任兼警備主任の柳田警部補が手伝つていたもので、本件の場合は山口巡査が申請書を受付けたが、掲示板の巾、長さが書いてないので、主任の柳田警部補の机の所へ持つて行くと、同警部補が自席に居たまま窓口にいる申請人長江にそれを聞いて自ら書込み、即日許可書を交付したもので、本田署長の印はいわゆる盲印を押したものであり、関係者は当時長江が共産党員で地区委事務所が大町一八番地にあることは知らず、壁新聞とは催物の告知板や広告宣伝用ポスターの掲示板の類と思つていたもので、若し地区委が使用するものと判れば、調査させて許否を決定した筈であり、許可当時はこれらの点について全く気付かず、あとで交通事故の生ずる虞があるようになつてから地区委が党の宣伝活動に使用していることを知つて、とんでもないことをしてしまつたということになつた」というのである。
柳田警部補は兼務とはいえ警備主任を一個年ほどしており(控証四冊二九丁裏)、いかに多忙でも管内の地区委事務所の所在地、地区委員、壁新聞の意味位は当然判つていなければならないとみられるのが通常であり、申請書の宣伝活動、壁新聞、西暦年号等の特殊な用語等を併せ考えれば、少くとも同警部補は本件掲示板設置は共産党員である長江久雄の名義で地区委が許可を受けるもので、党の政治活動を目的とするものであることが判つていた筈であるとみられても仕方のない事情にあつたのである。地区委が本件許可を受けたものと断定することは、前記の如く証拠上なお足りないものがあるが、市署側で真実この種事務取扱の実情等から、許可当時は長江を名義人として地区委が党の政治活動に使用するものであることに気付かず、本田署長もいわゆる盲判を押したものとしても、設置された掲示板には当初から「日本共産党石城地区委員会」と横書きされてあり、市署側でそれに気付いたのは六月初旬人だかりが多くなつてからであるかどうかは別として、その後市署側ではこれを黙認しており、許可の取消理由は交通上支障を生ずるに至つたことだけを事由として、右の点に関する条件違反は問題とせず、事実上地区委を折衝の相手とし、六月二七日のいわゆる協定では、従来の黙認を正式に許可の相手方が地区委であることを認めた形となつたのである。右の経緯に鑑みれば、そのようになつた事情の如何はともかく、本田署長としては本件許可を地区委に与えたものとしての効力を肯定し維持したものと認めるのが相当である。
二 論旨は、本件掲示板設置許可の取消、その撤去命令及び代執行の通告いずれも理由のない不当な措置ではなく、六月二九日の、明三〇日午後四時迄に撤去せねば代執行する旨の通告は、断じて二七日のいわゆる協定(同協定は到底有効に成立したものではない)の趣旨に反するものではない旨主張する。原判決は本田署長の右一連の措置は、いずれもその理由に乏しく不当な措置といわざるを得ない旨判断している。
1 掲示板設置のための道路一時使用を許可したものであるから、警察側の認識不足で壁新聞を催物の告知板ないし広告宣伝用ポスターの掲示板類と理解したとしても、その前に多少の人だかりのする場合のあることは許可当初から当然予想されたことであろう。ところで、福島民報記者である原審公判証人鈴木亀吉(統公三一冊一九八丁裏、一九九丁)、磐城民報社長である原審公判証人野沢武蔵(統公一九冊一一三丁、一一九丁裏)、写真機材料商である原審公判証人茂木茂(統公二〇冊三五三丁裏、三五四丁)、平市議である原審公判証人柴田徳二(統公二〇冊二九五丁裏)の各証言及び証第二二号の一乃至六の写真に徴すれば、朝夕のラツシユアワー等には掲示板を見る道路上の人が相当多くなり、時には道路幅の三分の一以上二分の一以下位に人だかりがはみ出し、或る程度交通上支障になることがあつたことを肯認するに十分である(原判決も「道路上にそれを見る人によつて相当人だかりがあつた」こと、「交通上支障がないとはいい得ない」とは認定している)。勤労タイムス記者である原審公判証人小林清(統公一九冊三三丁裏、三四丁)が、掲示板は大衆の手に入らない新聞等を貼つたので、通行人や地区の人々に効果一〇〇パーセントだつた旨証言していることからも、その間の消息が窺われる。原判決がこの点の反対証拠として挙げている原審公判証人斎藤敏雄(統公二一冊二三丁以下)、同桑島茂光(統公二一冊二九七丁以下)、同後藤一六(統公二〇冊一四〇丁以下)、同斎藤昌平(統公三六冊二七〇丁以下)等の証言を以ては、その供述内容から見ても右認定を動かすに足りない。右に徴すれば、平市署の署員である原審公判(統公三二冊二九丁裏、一四三丁裏、統公四五冊二〇丁裏)及び当審(控証三冊九丁裏、一五丁裏)証人本田正治、原審公判(統公三二冊六五二丁裏、六五三丁裏、統公四五冊一一七丁裏、一一八丁)及び当審(控証五冊一二丁裏、一三丁)証人伊藤徳雄、原審公判(統公二三冊三四七丁裏、三四八丁裏)及び当審(控訴四冊一一丁乃至一三丁、二〇丁裏)証人柳田藤雄、当審(控証四冊一三一丁)証人山口学、及び平地区署長である原審公判(統公四五冊一六三丁)証人橋本岩夫の各証言は、人だかりの程度や交通整理の回数等につき誇張の嫌があるとしても、これらと前記証拠とを総合すれば、六月初旬頃から掲示板に関心をひく記事が人目にたつ方法で掲載されたため、その道路(駅前の交通頻繁な道幅約五、六間の歩道車道の区別のない道路)上にこれを見る相当な人だかりがある時があり、或る程度交通上支障になることもあつて、時には交通整理をした場合もあつた事実はこれを肯認し得るのである。
右の如く、道幅五、六間の歩道車道の区別のない駅前の交通量の多い道路で、その道幅の三分の一以上二分の一以下程度に人だかりがはみ出したような場合には、或る程度交通上支障になるといわざるを得ないのであつて、時には交通整理の必要な場合も出てこようし、斯様な状況の発生が許可当時予想し得たならば、交通警察の責任者として無条件にその道路一時使用の許可を与えるようなことはしないのが通常であり、本田署長等市署側でこれを予想しながら敢て許可したとみるべき特別の事情も見出されないから、許可当時予想した以上の人だかりを生ずるに至つたものと認めるのが相当である。そして、人民に権利又は利益を賦与する行政行為の取消(撤回)は、取消権(撤回権)を留保している場合のほかは原則として許されないと解すべきであるが、本件のような道路の使用を許可する場合は、交通上の支障を生じないことが前提であるから、この使用許可の本質に照し、交通上支障を生ずるに至つたときは何時でも許可を取消し得べきことの附款が、仮令明示的になくとも黙示的に附せられているものと解するのが条理上当然である。従つて、本件道路一時使用の許可には明示的には右趣旨の附款はついていないが、その使用許可の本質上、その旨の附款が黙示的に附せられているものと認むべきである。そして、前記程度の交通上の支障を生ずるに至つた以上、取消を必要とするだけの実質的な警察上の必要性があるものと認むべきであるから、本件許可の取消は適法といわねばならないと共に、交通事故の発生する危険性があるものと認むべきであるから、速かに掲示板を撤去すべき旨命じたのは適法であるといわねばならない。尤も、取消命令、撤去命令を出す前に、注意なり勧告なりして話合いの場を作つた方が穏当な、慎重な態度であり、その意味においては市署側のとつた措置は妥当を欠くといえないことはない。なお、弁護人の主張する如く、許可期限の七月二〇まで交通整理を続ければよいということも一応考えられようが、道路上に設置された掲示板の前に人だかりがして交通上に支障ある場合には、取締りの対象は人だかりでなくして掲示板であることが交通警察の原則であつて、許可期限の終るまで交通整理を続けることを警察に求めることは無理であろう。
2 六月二七日の代執行令書(証第四号)には、行政代執行法第三条に定める代執行に要する費用の概算による見積額の記載はないが、執行責任者は結局平市署員であり、執行に殆んど費用を必要としないとみられるし、他方掲示板の撤去は極めて簡単であると認められるから、六月二五日に手交された許可取消書(証第五号)に附記された、速かに撤去せらるべき旨の記載は、代執行令書の記載と相俟てば、必ずしも同法条に定める文書に戒告があつたものとみられないこともなく、また、前記の交通上の支障や交通事故発生の危険性等からみて、同法第二条にいうその不履行を放置することが著しく公益に反すると認められるときに該らないとはいえないから、結局右代執行の通告は、瑕疵はあるけれども、無効でないことはもとより、未だ違法の程度ではなく、一応適法といえないことはない。
3 六月二七日のいわゆる協定は、共産党員及びその影響下の労組員等七、八十名が押しかけて、内三、四十名が署長室に押入り、一旦代表五名、立会人三名と制限してその他は室外に退去させたものの、又々十数名も入つて来て、署内外の情勢から湯本、内郷両町署に応援警察官の派遣方を要請し、交渉の終り近い頃来着した応援警察官は、群集のため追返されたほどであつて(原審公判証人本田正治((統公三二冊二四丁以下))、同伊藤徳雄((統公三二冊五〇五丁以下))、同柳田藤雄((統公二三冊三〇九丁以下))の各証言、及び被告人熊田豊次の検察官に対する供述調書((統証二冊三一七丁以下))参照)、到底正常な交渉の結果妥結したものとは認められないが、本田署長はとにかくその後二九日右協定で後日あらためて協議することにした掲示板の移転場所及び時期につき、地区委側の来署を求めて交渉をすすめているのであるから(原審公判証人本田正治の証言((統公三二冊四二丁以下))参照)その事情の如何はともかく、右協定の成立を一応是認したと認めるのが相当である。右協定の内容は、地区委側は掲示板が何もないよりは交通の支障になることを認める、市署当局は共産党の政治活動を弾圧しない、速かに同じような宣伝価値のある適当な場所を見つけて移転することとし、それまでは現状のままとする、移転場所については後日あらためて協議するという趣旨のものである(原審公判証人桑島茂光((統公二一冊二九七丁以下))、同後藤一六((統公二〇冊一四〇丁以下))、同岡田馨((統公三四冊一二八丁以下))の各証言参照)。右協定の法律的意味は、本田署長が従来の黙認を、いわば正式に許可の相手方が地区委であるとしての効力を肯定したこと、地区委は許可の取消及び撤去命令に同意したこと、なお移転場所が見つかれば、代執行の戒告等は書面によらなくとも口頭で足りるという趣旨をも包含するものと合理的に解釈されること(従前の経過に照し、日時の点以外は既にこれまで書面でなしたものと同様であり、本件協定自体書面を作成せず、その協定で場所が見つかれば速かに移転するという話合になつていること等の諸事情からみて、斯く合理的に解釈さるべきである)等である。
4 二九日昼頃伊藤次席の復命と地区委側の金明福の報告に基き、移転場所が七分通り借りられる見通しがついたので(原審公判証人本田正治((統公三冊一四四丁以下、統公三二冊四三丁以下、統公四五冊二二丁以下))、同伊藤徳雄((統公六冊四一丁以下、統公四五冊一一三丁以下))の各証言)、本田署長が地区委側に対し、大体借りられることに間違いないから明三〇日午後四時までに掲示板を撤去するよう命じ、撤去せねば強制撤去する趣旨(統公三二冊一九四丁裏)を告げたのは、法律的には代執行の戒告と解すべきである。ただ、前記協定に基いているもので通常の代執行の戒告と趣を異にし、前記協定の趣旨に照し、三〇日午後四時前撤去に要する時間を除いた時刻までに、移転場所の借りられることが確定した場合に限り有効と解するのが相当であり、また前記の如く口頭で足りるものと合理的に解釈すべきである。そして、移転場所の所有者酒井清一は、本田署長が右戒告をする前に既にその土地を貸すことを決心しており(原審公判証人酒井清一((統公二〇冊三〇一丁))の証言)、三〇日午後二時頃には右土地を貸す旨を地区委側に知らせているのであつて(統公二〇冊三〇三丁、控証四冊一八〇丁)、期限までに約二時間あるのであり、掲示板の移転は人夫二人もあれば一〇分位でやれる程度のもので(原審公判証人伊藤徳雄((統公三二冊五三五丁、統公四五冊一一一丁))の証言)、道路交通上早急に移転する必要があるのであるから、右戒告は有効というべきである。なお、撒去せねば強制撒去する趣旨を告げたのは、むしろ直接強制に当ると解すべきであり、それは常に直接法律の根拠ある場合に限るとすれば、本件の場合は警察官職務執行法第四条に該当することを要し、それに該当するほど急迫した緊急状態とはみ難いから、この点においておそらく行政法上は違法であろうが、今日でさえも直接強制としてのみ行われ得るような措置が代執行として講ぜられる例(例えば、防火対象物の移転命令に服しないという理由で、対象物を破壊する措置を講ずる等)が実際上には往々にして見られるのであるから、右の違法は法律上当然無効をきたす重大且つ明白なものに該当しないというべきはもとより、刑法上は必ずしも一応適法なものとはいえないことはない。
5 しかし、この本田署長が地区委側に対し、移転場所の借りられることが七分どおりの見通しはあるとしても、まだ確定しないのに、明三〇日午後四時までに掲示板を撤去するよう命じ、撤去せねば強制撤去する趣旨を告げてこれを固執した措置は、なんとしても妥当を欠くものといわざるを得ない。成程本田署長としては、三〇日午後四時の期限を固執せねば地区委側でいつまで経つても移転しない状態にあると判断し、これまでの経緯からの警察の威信を確立するという考等もあつて、地区委側の強硬な抗議に応じなかつたという気持(原審公判証人本田正治((統公四五冊二八丁以下、六六丁以下))、同伊藤徳雄((統公四五冊一一五丁))の証言)も察せられなくはないし、地区委側が「この問題は共産党としては百歩も二百歩も後退する大問題である」と主張し(原審公判証人伊藤徳雄((統公六冊四三丁、統公三二冊五三九丁))の証言)、前記の如く移転場所が借りられることが確定した時にも、その事実を知りながら「借りる、借りないはわれわれの勝手だ、それより午後四時までに撤去しろという一方的命令を取消せ」と放言している(原審公判証人本田正治((統公三冊一五〇丁、統公三二冊五三丁以下))の証言)事実等からも、およそ地区委側の態度が窺われなくはない。けれども、他に採るべき適切な処置がなかつたであろうか。必ずしもなかつたとはいえない。
右の場合、原判決のいう如く「警察の措置を不当とし、その不当の措置に対し交渉或は抗議すること、その際大衆を動員して大衆による交渉或は抗議の形をとること自体何等違法ではあり得ない」としても、それは社会通念上、何人も首肯するに足る程度の平和的かつ秩序ある方法によつて行われる場合に限らるべきである。
因みに、右警察の措置が仮に違法であるとしても、その違法、適法が客観的に未確定の状態にあるにおいては、これに対し関係大衆に許される抗争の限度は、社会通念上暴行脅迫に至らない他の方法、例えば少数の代表者をあげて平穏裡に折衝する等平和的秩序ある方法によることであり、本件大衆による交渉或は抗議の過程においては後段説明の如く大多数の群衆間に共同意思の認められる暴行脅迫が行われたのであるが、その群衆の行動は、当時の社会情勢を考慮に入れても、許容の限度を遙かに超えることはもちろん、平市署前衝突の際の警察側の態度には、後段説明の如く急迫不正の侵害行為等なく、その他警察側が実力を以て掲示板撤去にとりかかる等権利の侵害が切迫現在してやむことを得ざるに出でたものとは到底認められないと共に、群衆の行動により保護しようとする言論表現の自由とその行動の結果侵害せられる公共の静謐との法益権衡の原則等からみても、その違法性を阻却すべき事由ありとは到底認められない。
三 なお、論旨は、地区委側が本田署長の一連の措置を以て、共産党の政治活動に対する弾圧であると解したことにつきやむを得ない事情はなかつた旨、及び矢郷争議に対する警察側の措置が権限逸脱で、労働者の反感を買つた事実はない旨主張する。
1 原判決は、右一連の措置が理由に乏しく不当な措置であること、六月初旬に人だかりの状況を認識したのに、同月二五日に至つて突如として許可取消及び撤去命令を出したこと、本田署長の命により許可取消の命令を通告した杉森巡査部長が、右命令は占領軍の指示に基くものであるかの如き口吻をなしたことを挙げて、地区委側が本田署長の右措置を以て他の何等かの意図に基くものではないかと疑い、共産党に対する弾圧であると解したこともやむを得ない事情があつたと判断している。本田署長の右一連の措置は少くとも一応適法であるが、いきなり許可取消及び撤去命令を出さないで注意勧告をして話合いの場を作り、或は協定の成立後は、移転場所借入れが確定してから撤去命令をなす等の措置をとるのが穏当であり、これらの点において妥当を欠くものがなくはないこと既に説明したとおりである。しかし、原審公判証人杉森勘治の証言(統公二三冊二七一丁以下二八〇丁)によれば、同人が許可取消命令の通告に行つた際、清野常雄との問答の間に「進駐軍も時折平に来るから自動車も交通妨害される状態にある」旨を話したことがある程度のものであり、当審証人本田正治(控証三冊三丁以下)、同塩谷重蔵(控証二冊七一丁以下)の証言に徴しても、右程度以上のことを認めることは困難である。以上認められるこれらの諸事情を以ては、掲示板が既に説明した程度の交通上の支障になつたことは事実であり、地区委側も或る程度これを認めているのであるから、その掲示板設置許可の取消及び撤去命令をなしたことを、地区委側が共産党に対する弾圧であると解したことはともかく、かく解したこともやむを得ない事情があつたものとは速断し難い。
なお、六月二七日岡田馨と松木佐吉が掲示板のことで平地区警察署を訪ね(原審公判証人岡田馨((統公三四冊一二八丁以下))の証言、鈴木光雄の検察官に対する供述調書((統証四冊四一六丁裏))参照)、同月二九日鈴木光雄が掲示板のことで橋本平地区署長を訪ねていること(原審公判証人橋本岩夫の証言((統公四五冊一六四丁裏一六五丁、一八七丁裏乃至一九〇丁裏))、鈴木光雄の検察官に対する供述調書((統証四冊四二三丁裏))参照)、二九日夜鈴木光雄が移転場所を貸して貰えるかどうかを確めるため住吉屋支店酒井清一方を訪ね、翌三〇日午前金明福が酒井方に回答をききに行つたこと(原審公判証人酒井清一((統公二〇冊二九八丁))の証言)、同日午前午後とも地区委側が撤去命令撤回の交渉のため市署に赴いたことは事実であるが、前叙の如く三〇日午後二時頃酒井から移転場所を貸す旨の回答があつたにも拘らず(統公二〇冊三〇三丁、控証四冊一八〇丁)、地区委側が「借りる、借りないはわれわれの勝手だ、それより午後四時までに撤去しろという一方的命令を取消せ」と放言し(統公三二冊五三丁以下、控証三冊一五〇丁)、あくまで撤去命令の撤回を迫つた事実(この時刻は地区委の指令で既に党員、労組員等百数十名が湯本町署に押しかけ、脅迫的言動を以て平市署への応援警察官を出さない旨の言明をさせた後であるばかりでなく、別の党員、労組員等約百四、五十名が同様の意図を以て内郷町署に押しかけた頃にあたる)に鑑みるときは、地区委側は、弁護人の主張する如く、あくまで平和的に円満に事の解決をはかろうと努力したとばかりはいい難い。
2 また、原判決は、矢郷争議に対し内郷町署のとつた措置、特に仮処分執行の際その執行に先だち従業員の入坑を阻止する態度に出た措置は、予防警察の範囲を逸脱していると認められる状況があるため、矢郷炭鉱従業員のみでなくこの争議に深い関心を有する労働者等を刺戟し、内郷町署が争議に不当に干渉し労働者を弾圧するものであるとして強い反感を買い、同署長はこれについて抗議を受けたこともあり、特に労働者は同署警備係古口巡査部長に対しては個人的にも悪感情を持つに至つた旨判断している。ところで、原審公判(統公一八冊二一七丁以下)及び当審(控証二冊七一丁以下)証人塩谷重蔵、原審公判(統公一七冊四〇七丁以下、統公一八冊一五丁以下)及び当審(控証二冊一九八丁以下)証人古口定吉、原審公判証人平田直男(統公二五冊一四〇丁以下)、同菅家徳寿(統公一七冊二四〇丁以下)、同中塚四雄(統公一八冊四二丁以下)、同松崎博(統公三六冊三三八丁以下)、同佐藤末男(統公三四冊一五丁以下)、同桑島茂光(統公二一冊二九七丁以下)の各証言によれば、内郷町署は古口巡査部長等の情報により、会社側と労組側が対立状態にあつて、会社側が被解雇者の砿業所内立入禁止の仮処分の申請をしてその命令を得たのに対し、労組側では強硬就労の気配もみえて、事故の発生する虞があるものと判断し、その予防措置として湯本町署及び平市署に応援警察官の派遣を求めて警備警察官を現場に派遣したのであるが、その警察官の中には仮処分の執行前坑口の受付附近にいた者もあることが認められ、その点妥当を欠くものがあるのは別として、直ちに以て予防警察の範囲を逸脱したものとは断じ難い。古口巡査部長の警備情報活動や、各自治警察署の応援警察官派遣はもとより適法である。しかし、原審公判証人平田直男(統公二五冊一四〇丁以下)、同掛札満男(統公三四冊三六五丁以下)、同町田亀治(統公三〇冊一五一丁以下)の各証言、及び被告人鈴木孝三郎の検察官に対する供述調書(統証六冊三五丁以下)に徴すれば、矢郷炭砿労組中の党員を中心としてその影響下にあつてこの争議に深い関心を有する労組員や附近諸炭砿各労組の主として党員達は、内郷町署が争議に不当に干渉し労働者を弾圧するものであるとして強い反感を懐き、地区委幹部を通じて内郷町署長に対し抗議をなしたこともあり、特に古口巡査部長に対しては個人的にも悪感情を持つに至つたことが認められる。そして、矢郷争議に関する事情を世人に訴える方法として、地区委と連絡して平駅前の本件掲示板を利用していたため、その撤去問題は争議に重大な影響あるものとしていたので、そのことがこれら党員及びその影響下にある労組員等多数の者が二七日以降の本件掲示板問題についてのいわゆる大衆抗議に参加するに至つた主な理由であり、三〇日午後平市署に押しかけるに先だち、内郷町署に対し執拗に平市署への応援警察官を派遣しないことの誓約を強要し、その際特に古口巡査部長に謝罪を要求して暴行を加えた事由であることが窺われる。
叙上説明の次第で、原判決には動機原因に関し事実誤認等の点がなくはないけれども、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明かであるとは認め難く、未だ以て原判決破棄の理由となすに足りない。論旨は結局理由がない。
その三 控訴趣意第二点中謀議計画に関する主張について
論旨は、本件騒擾は予め地区委幹部等が多数の同志を動員糾合して湯本、内郷両町署及び平市署を実力を以て制圧する旨の謀議計画を行つたことに基くもので、それは具体的には六月二九日夜の地区委事務所における会合、及び翌三〇日内郷町の日野定利方における会合で行われれたものであり、その謀議の内容は、少くとも、掲示板撤去命令を撤回させるための交渉を有利にする目的で、全党員及びできるだけ多数の組織大衆を動員して応援させ、あくまで撤回要求の貫徹をはかり、その方法として、先ず平市署との交渉に先だち同署への応援警察官の派遣を阻止するため湯本、内郷両町署を制圧した上平市署へ押しかけ、若し平市署長が応じない場合は、実力を以て警察を制圧するため暴行又は脅迫の手段に出ることをも予想したものである旨主張する。原判決は全面的にこれを否定している。
一 ところで、この点に関する全証拠を以てしても、原審検察官の主張するような、本件三〇日における群衆の行動が地区委の平市署を襲撃する謀議計画に基くものであるとの事実は認められない。二九日夜の地区委事務所会合は、この点に関する証拠である被告人草野直子(統証四冊三八五丁)、同小松シメ子(統証三冊八一丁)の各検察官に対する供述調書、証人清野常雄に対する裁判官尋問調書(統証五冊一七〇丁)、被告人小宮薰(統証四冊四八九丁)、朴重根(統証五冊一一七丁)の各検察官に対する供述調書、原審公判証人星肇の証言(統公二七冊一〇六丁)に徴するに、同夜九時過頃同事務所二階で鈴木光雄、金明福、村上俊雄、長江久雄、榊原光治、高萩良一、清野常雄、草野直子、小松シメ子等が集つて掲示板問題の対策を協議し、その内容は掲示板撤去命令を撤回させるため、全党員及びその影響下にある組織大衆をできるだけ多数動員し、その団体及び集団の威力を背景に、その圧力であくまで撤回要求の貫徹を企図することとし、この問題は重要だから下部組織に通達連絡するためそこに居た人達が各方部別にこれを受持つことにした事実が認められ、その方法として、先ず平市署への応援警察官派遣を封ずるために湯本、内郷両町署に押しかけ、圧力をかけて応援警察官を派遣しないことを確約させた上、平市署へ押しかける分担を決めたことを推認し得る程度である。三〇日の日野方会合は、この点に関する証拠である被告人星野一二(統証三冊二二九丁、二四二丁)、同上津源三(統証四冊二七三丁、二七五丁、二九五丁、二九六丁)、同熊田豊次(統証二冊三五三丁以下)、同鈴木勝利(統証五冊二三八丁)、同佐藤光明(統証四冊一四七丁以下)、同東務(分証四冊一六六丁以下)、初田一夫(統証二冊二二五丁以下)の各検察官に対する供述調書(但し、東務のは謄本)、原審公判証人三浦清一の証言(統公二七冊三七六丁)に徴するに、同日午前八時頃から午後一時過頃まで、日野方において日野定利、鈴木磐夫、松木佐吉、熊田豊次、佐々木贇等多数党員が集つて協議し、その内容は掲示板問題の交渉は決裂することが予想されるから、全党員とできるだけ多数の組織大衆を動員して、その圧力であくまでねばつて交渉を有利にすること、平市署に押しかける前に内郷署に圧力をかけて、平市署への応援警察官派遣を阻止することとした事実が認められ、右会合が地区委の指令連絡に基くものであることが推認される程度である。そして、下部組織等の同志への連絡内容においても、掲示板問題で平市署と交渉するから多数同志を集めて応援に来てくれという趣旨の程度である。
検察官の挙げる諸事象に徴しても、若し平市署長が要求に応じない場合は、検察官のいわゆる実力を以て警察を制圧する意味の暴行脅迫の手段に出ることをも予想したものであると認めることは困難である。尤も、掲示板撤去問題をめぐる事態の推移、特に右二つの会合を中心とする前後の諸事情(二七日の平市署、内郷町署に対する抗議デモ、翌二八日の湯本町署に対する抗議デモ、及び二九日、三〇日の掲示板移転場所問題の交渉経過、右内郷町署に対する抗議デモは、鈴木磐夫等数十名の群衆が署内に押入つて脅迫的言辞を弄し、湯本町署に対する抗議デモは、百数十名の群衆が押しかけ鈴木光雄等数十名が署内に押入り、更に署長を玄関前に連出して小突き廻し、或は蹴る等の暴行を加えたもので、かかることを実行し又は目撃している群衆が本件三〇日の抗議デモの中心となつていること、三〇日の交渉は決裂が予想されていたこと等)を検討すれば、群衆を動員した地区委幹部において、平市署長が要求に応じない場合は警察官との間に小競合い位の衝突が起きるかも知れないという程度の、未必的予期があつたものと認めるのはむしろ当然である。しかし、その場合検察官のいわゆる実力を以て警察を制圧する意味の、いわば騒擾性を認識した予期があつたものと認めるのは、証拠上なお足らぬものがあり、無理と考える。
二 次に検察官の挙げる謀議計画のあつたことを示すものとして諸事象について検討する。
(1) 六月二九日午後一時前後頃、内郷町所在常磐炭礦労組製作所支部事務室内で、明日は革命の予行演習がある旨の話が囁かれていたという事実である(原審公判証人鈴木将夫((統公二七冊三三一丁裏乃至三三三丁))の証言)。右時刻は丁度金明福が正午過頃平市署へ来て本田署長から明三〇日午後四時までに掲示板を撤去するよう命じられ、若し撤去しなければ強制撤去するという趣旨を告げられて抗議したが、容れられずして立去つた直後の頃から、次いで午後一時頃鈴木光雄が来署して、右は協定の一方的破棄で共産党に対する弾圧であると強硬に抗議している最中の頃に当るのである。鈴木光雄は午後三時頃次に述べるような捨台詞を残して同署を立ち去つたが、同日夜九時頃には駅前住吉屋支店酒井清一方を訪ねて、警察の撤去命令を告げ移転場所の土地を貸して貰いたいと話したところ、酒井から親戚と相談したいから明朝まで待つて貰いたいと言われて帰り、その際市署からはこの問題につき何等酒井に電話もなかつたことを聞き、市署側には問題円満解決の誠意がないと考え、九時過頃からいわゆる地区委事務所会合を開いたのである(原審公判((統公二〇冊三〇一丁))及び当審((控証四冊一七八丁裏))証人酒井清一の証言、被告人鈴木光雄の検察官に対する供述調書((統証四冊四二九丁))参照)。右の経緯に照し、午後一時前後頃囁かれたという革命の予行演習云々の言葉に検察官の主張するような本件謀議の暴力的内容を立証する有力なる状況証拠の一とする程の強い意味を認めることは困難である。
(2) 右二九日の午後三時頃鈴木光雄が平市署を立去る際、「署長がそのような一方的弾圧態度に出て無茶な意見を主張するならば、われわれの方でも若い者がいる、この問題で何事が起きても署長が全責任を負うべきだ」という言葉を残して立去り、又翌三〇日午後三時頃に金明福が本田署長に対し、「どうしても一方的に午後四時説を主張するのでは、署長、腹を決めたか、警察も動員したらどうだ、われわれの方も若い者を集めるから一喧嘩しよう、その時は次席も勇ましい働きをするだろうなあ」と放言して間もなく同署を退去したという事実である(原審公判((統公三冊一四九丁、一五一丁、統公三二冊四六丁、五五丁))証人本田正治、同((統公六冊四二丁、四七丁、統公三二冊五三六丁、五四一丁))伊藤徳雄の各証言)。本田署長が三〇日午後四時までに掲示板を撤去するように命じ、撤去せねば強制撤去する旨告げたことを以て、地区委側が二七日の協定の一方的破棄で共産党に対する弾圧であるとして憤慨したことは事実であるが、掲示板撤去問題の交渉経過における地区委幹部の態度に徴し、特に三〇日午後二時頃には移転場所の借入が確定したにも拘らず、金明福が「借りる、借りないはわれわれの勝手だ」云々と放言し、午後三時頃には前記「一喧嘩しよう」云々の放言をなしている(その時は既に内郷町署に押しかけた百数十人の群衆の大多数が、暴行脅迫をしている最中にあたる)事実に鑑みるときは、原判決の説明する如く、警察の措置に対する一時の憤慨の言葉としてのみ理解することはできない。けれども、鈴木光雄の場合は、前記の如くその日の夜移転場所の借入交渉に赴いた事実もあり、前記言葉の趣旨は、群衆が平市署に交渉に押しかけた場合のことではなく、警察側で現実に掲示板撤去にとりかかつた場合、群衆が警察と衝突乱闘する騒ぎを引き起すことを意味することが窺われなくもない(鈴木光雄((統証四冊四一八丁裏))東務((分証四冊一五六丁裏))、星野一二((統証三冊二四二丁))の各検察官に対する供述調書((東務のは謄本))、及び原審公判証人本田正治((統公四五冊二八丁))の証言参照)。金明福の場合も、三〇日朝酒井方に移転場所借入れの回答をききに行つており、前記放言の際内郷町署に群衆が押しかけている事実はともかく、暴行脅迫をしている事実をも知つていたとはみ難く(午前の湯本町署に対するものはそれほどのものではない)、その放言の趣旨は、右鈴木光雄の場合と同様であると必ずしも窺われなくもないのであつて、これらを以て直ちに検察官の主張するような、本件謀議の内容が実力行使による三署制圧を企図したものと推認し得る有力なる状況証拠の一であると認めることは、なお困難なものがある。(原判決は、金明福が前記の如き言葉をはいたが、さらに再び延期の要請をしているのであるから、右の言葉により地区委事務所会合の内容を推断することは困難であるとしているが、金明福はその前同日午後一時半頃来署した山崎公安委員長等に対しても、一週間待つてくれ、三日待つてくれと延期を要請して拒絶されているのであつて((原審公判証人山崎与三郎の証言、統公二四冊九〇丁))、右延期要請はさして重要とは認め難い)。
(3) 三〇日午後二時頃福島民友記者後藤一六から電話で「今日何かあるのか」と尋ねられたのに対し、鈴木光雄が「今日はこれから三時に平市署に行く、フイルムでも巻き替えていたらよかろう」と答えたという事実である(原審公判証人後藤一六((統公二〇冊一四五丁))の証言)。しかし、二七日、二八日の抗議デモもあつたのであるから、右の言葉を以て直ちに、検察官の主張するような実力を以て市署を制圧する意味における新聞記者が写真を撮影するような特異不穏な事態の発生を予期した言葉とみることは困難である。
(4) 三〇日朝元湯本町署の掲示板に「弾圧をやめさせよ、でたらめな警察をたたきつぶし民族の独立の為に闘う、諸君行け、平市署へ、午後三時平駅前集合」と書いたビラが日共湯本細胞の名で掲示され、同日朝常磐炭礦磐崎通勤区事務所前の同会社掲示板に「言論の自由の為に戦う、本日平地区共産党は生命かけて言論の自由の為に戦う、湯本警察署前及び内郷警察署前において、各所午前十時より」との文言のあるビラが日共磐崎細胞の名で掲示され、又同日午後三時頃平市田町通りの電柱数個所に「警察を葬れ」と書いたビラを貼る者があつたという事実である(原審公判証人菅家徳寿の証言((統公一七冊二四〇丁以下))及び証第二五号、第二六号の写真、原審公判証人草野景介の証言((統公一七冊四四丁以下))及び証第二四号のビラ、原審公判証人矢野庫吉の証言((統公二〇冊二一五丁以下))参照)。これらのビラは二九日夜の地区委事務所会合に基き、その指令によつて作成貼付されたものであることが窺われるのであつて(被告人桜庭尚康((統証二冊一二四丁以下))、同木村一章((統証四冊三〇七丁以下))の各検察官に対する供述調書)、労働運動等の激文ないし宣伝文の一般の例を以て考えることはできないとしても、これらの激越な文言を文字どおり受取り、これを以て検察官の主張する如く、これら不穏ビラの意図するところはまさに暴力を主張しており、かつそれは謀議の内容をそのまま反映しているものであると推定するのが極めて合理的な解釈であるというのは無理である。
(5) 三〇日の日野方会合につき、被告人星野一二の検察官に対する供述調書(統証三冊二四二丁)中「自分が三〇日午前中日野方に赴いた際、午後四時から平市署に対し交渉を持つが、警察側では実力を以て掲示板を取外す、そのため消防自動車まで動員するとのことであつたので、一同の間に交渉が円満に行くかどうか不安憶測する者もあり、自分も心配し、出席者一同も同様の不安感を抱いた」旨、原審公判証人三浦清一の証言(統公二七冊三七六丁)中「平事件のあつた日佐藤慶助と会つたが、同人より『今日二時から内郷町署で人民大会を開くから大騒ぎが起るかも知れない、そのことについて綴の日野方で相談が行われている、ついては製作所の青年層の全部を参加させてくれないか、共産党員で妻のある者は水盃を交わして訣別して来る、われわれとしても相当の覚悟を持つている』との話があつた」旨各供述しているという事実である。前者については、鈴木光雄や金明福の不穏な捨台詞のところで説明したと同様に、群衆が平市署に交渉に押しかけた場合のことではなく、警察側で現実に実力を以て掲示板の撤去にとりかかつた場合、群衆が警察官と衝突する騒ぎのことを意味することが窺われなくはないのである。後者については、弁護人は答弁書で伝聞証言である旨主張しているけれども、原審において弁護人も被告人等も、何等異議の申立をしていないのであるから、これを証拠とすることに同意したものと認むべきであるが(因みに、弁護人及び被告人等は、原審においても当審においても各証人につき必要に応じて異議の申立をしているのであるから、その申立のない限り伝聞証言を証拠とすることに同意したものといわねばならない)、動員連絡に行つた一人の主観を交えた証言によつて、日野方会合の内容を右証言のままに律することは困難である。(なお、検察官が日野方会合の前夜の地区委事務所会合に出席した長江久雄も出席していると認める証拠としている原審証人菅野枡昌の証言((統公四一冊七五丁))は長江久雄以外の被告人等に対して証拠能力のないものである)。
(6) 三〇日正午頃から午後三時頃まで、朝連浜通支部事務所において同日午前湯本町署に押しかけた群衆を中心とし、それに朝連関係者を含めた約百数十名が集り、鈴木光雄、村上俊雄、朴重根等が協議して、平市署へ押しかける際の群衆の統制をとるために、責任者を決め交渉員を選定し、或はスパイ活動、秘密の保持、見張警備等に関する対策を講じたという事実である(原審公判証人佐川青子の証言((統公二一冊二三丁以下))、被告人佐藤一((統証四冊一〇五丁、一一八丁以下))、同小宮薰((統証四冊四八二丁以下))、朴重根((統証五冊一四六丁以下))の各検察官に対する供述調書)。検察官は右会合協議が平市署において実力を以て同署を制圧する意味の暴行脅迫に出ることを当然予想し、そのための態勢を準備したものであるとし、その証拠として、原審公判証人佐川青子の「六月三〇日朝連浜通支部の金某に竹竿十本位貸してやつた」旨、原審公判証人蓬田真(統公二一冊四五丁以下)の「平市署に押しかけた朝連員中に五、六人が庖丁を借りに来て、竹槍を作るのだからといい、中には先を削つた竹槍に似たものを作つた者もある」旨の各証言を根拠としている。けれども、佐川青子の証言によれば、竹竿を貸してやつたのは昼過頃のことで、それは赤旗をつけるためのものであつたこと(統公二一冊二九丁)、蓬田真の証言によれば、庖丁を借りに来た時刻は忘れたが、未だ明るいうちのことで、暴力団が内郷の方から来るのに対抗するために竹槍を作るということであつたこと(統公二一冊六一丁)が明らかであつて、これを以ては所論の根拠とはなし難い。尤も朴重根の検察官に対する供述調書(統証五冊一四八丁)によれば、鈴木光雄が「壁新聞の問題は交渉が旨く行つているから解散しようと思つているが、万一の場合もあるから、統制のために責任者を一人宛出してくれ」と言つたので、責任者の選定をしたというのであるが、これを以て直ちに実力で警察を制圧する意味の暴行脅迫を当然予想して、そのための態勢を準備したものと解することは無理である。
なお、朝連浜通支部事務所は平地区警察署と隣接しており、平市署にも近く、同市署へ赴く待機場所として地区委事務所より好適の所であることが窺われ(当審検証調書参照)、当審証人柴田義房の証言(控証五冊二〇二丁以下)によれば、当日平地区署が自署の警備だけに手一杯であつたのは、平市署へ押しかけた群衆の一部や別動隊が押しかけて来る懸念等の情勢判断から動きがとれなかつたものであり、朝連浜通支部における動きもその判断の一材料であつたことが認められ、或る程度平地区署を牽制する役割を果したことは窺われる。
(7) 本件事件発生の最中、平市署における群衆と福島県内外における同志等と迅速な行動情報の交換がなされたという事実であるが、これは全逓平支部書記局の活動によるものであることが窺われるけれども(原審公判証人渡辺安広((統公二七冊三八二丁以下))、同半杭学((統公二七冊一六六丁以下))の各証言及び半杭学の検察官に対する供述調書((統公証二冊三八九丁以下))参照)。これを以て直ちに本件が実力を以て警察を制圧する計画的犯行である証左となすことは困難である。
(8) 因みに、原判決が平市署襲撃の謀議計画のなかつたことを示す一事情として、平市署前で群衆が暴行をなすに至つた原因を、後着の群衆が警察で一切の入署を拒否したものと誤解したことと、警察官が警棒で群衆の一人に裂傷を与えたこと等に基因する偶発的なものであることに求めているが、後段説明する如く(その五の二参照)平市署前衝突の原因が右のようなものである事実は認められない。しかし、原判決の挙げている平市署に押しかけた群衆中に、多数の婦女子がおり、又その群衆の服装、持物(ただし、二、三人は最初から棍棒を持参した者もある)も平素どおりと認められ(証第一八号中第四、第一八乃至第二二葉の写真参照)、この点につき、指示連絡された形跡のないことは、実力を以て警察を制圧する意味における暴行等に出る、いわば騒擾性を最初から予期したものと認め難いことの一事情と必ずしもなり得なくはない(原審公判証人蒲生正利の証言((統公三五冊七七丁裏乃至八二丁裏))参照)。なお、弁護人は答弁書で、地区委側の平和的解決への努力と、二九日の四署長会談を挙げているが、地区委側があくまで平和的円満に事の解決をはかろうと努力したとばかりはいい難いこと既に説明したところであり(その二の三の1参照)、二九日夕刻、本田平市署長が特に二七日以降の緊迫した事情と掲示板を強制撤去する場合のことを考えて(原審公判証人本田正治((統公三二冊一九四丁裏))の証言)、湯本町署で湯本、内郷両町署長及び平地区署長とこれが対策を協議したのであるが、両町署とも炭礦争業の問題があり、当時の福島県内における情勢と警備態勢に鑑み、多数の応援警察官を得ることは困難であるから、この際できるだけ共産党を刺戟せず、努めて事を円満に運ぶことに協議決定したのである(原審公判((統公三二冊四八丁、一五六丁乃至三八丁))及び当審((控証三冊二七丁乃至一五〇丁))証人本田正治、原審公判((統公一八冊三二三丁、三三〇丁以下))及び当審((控証二冊七九丁乃至八〇丁裏))証人塩谷重蔵、原審公判証人橋本岩夫((統公三二冊四一五丁以下))の各証言)。
以上の説明の次第で、検察官の挙げる諸事象を総合しても、その主張するような謀議計画のあつたことを認めるのには証拠上なお備わぬものがあり、困難であると考える。原判決には結局この点に関し事実の誤認はないことに帰する。論旨は理由がない。
その四 控訴趣意第二点中本件騒擾の規模、及び湯本、内郷両町署における暴行脅迫の程度と、共同意思の存在に関する主張について
一 論旨は、本件六月三〇日における群衆の行動は、地区委の指導下に計画されたものであり、その目的は掲示板退去命令の撤回を強要して、湯本、内郷両町署及び平市署を制圧するにあつたものであり、これら三署に対する暴行脅迫の所為は、一個の群衆の一つの目的意図に出た一個の行動と観察すべきものである旨主張する。
原判決は、三〇日両町署に押しかけた群衆の行動は、平市署襲撃の意図計画に基いてなされたものとも或は平市署における暴行脅迫の行動を予期してなされたものとも、認められないから、右両町署における行為を以て、その相互の間において、又はその後の平市署における暴行等の行為との関係において、その準備行為又は一罪の関係に立つものとは認められない旨判断している。
ところで、本件三〇日湯本内郷両町署に押しかけた群衆の行動はいずれも平市署における掲示板問題の交渉或は抗議を妨害されないため、同市署に対する応援警察官の派遣を阻止する意図の下になされたものであり、この点原判決も認めているところである。その意味においては、両町署における群衆の行動は、その後の平市署における行動の準備行為といえないこともない。しかし、両町署に押しかけた各群衆の集団が相互間に連絡統制があり、平市署に押しかけて合流したとしても、地域的に異つた場所に出動した際暴行脅迫が行われたのであるから、それが多衆といい得るか、公安危害性を生じたかどうかは各集団ごとにこれを判断すべきものであつて、その全体がこれに当るかどうかということによつて決定すべきではない。(尤も、その集団が全集団の一分団であるという点は、その集団自体の公安危害性を高める一要素とはいい得るが、その占める比重は他の要素に比し遙かに軽い)。このことは各署における群衆の行為が、平市署における暴行脅迫の行為を予期してなされたと否とに拘らない。従つて、三署における各暴行脅迫の行為の関係は、単純一罪の関係には立たないが、それが各騒擾にあたる場合には包括一罪を構成するものと考える。
二 論旨は本件三〇日湯本町署に押しかけた群衆の行動は多衆、共同意思、暴行脅迫の程度の三要件を充足し、公安を害する危険性を生ぜしめたもので、本件騒擾の始期である旨主張する。
原判決は、湯本町署における行為は渡辺巡査部長に罵声を浴びせ或は同人をスクラムで取囲んだが、同部長の要求によつて右のスクラムは直ちに解かれたものであり、その程度は極めて軽微であつて、到底騒擾にあたるとはいえない旨判断している。
原審公判(統公一七冊一三〇丁以下)及び当審(控証二冊三丁以下)証人渡辺清憲、原審公判証人木村進一(統公一七冊六七丁以下)、同菅家徳寿(統公一七冊二四〇丁以下)、同原川虎夫(統公一七冊一〇三丁以下)、同服部梅雄(統公一七冊三〇四丁以下)の各証言、及び被告人佐藤一(統証四冊一〇五丁、一一八丁以下)、同小宮薰(統証四冊四八二丁乃至四八九丁)、同佐藤多美夫(統証三冊二四丁以下)の各検察官に対する供述調書によれば、三〇日午前一〇時半頃、湯本町方面の共産党員、その影響下にある労組員、朝連関係者等約百数十名は、赤旗を立てて湯本署に押しかけ、労働歌を合唱する一方、村上俊雄、朴重根等約二〇名は署内に押入つて署長に面会を求め、その代理として応待した巡査部長渡辺清憲に対し、朴重根が主となつて「今日平に応援に行くか行かないか、他所に応援警察官を出すな」「表に皆が集つているから表に出て回答しろ」「此奴を表にかつぎ出せ」等と罵声を浴びせ、或は赤旗の竿で床を突鳴らしながら回答を求め、その間、署外の群衆も署長室の窓際に鈴なりになつて「表へ出ろ、表に出せ」と言つて大声をあげ、その気勢のため署前に立出た同巡査部長をスクラムを組んで取巻き、同部長が朴にスクラムを解いてくれと言つてこれを解かしたが、幹部が「なぜ回答しないんだ、そんな野郎は即時追放してしまえ」というと、群衆は「そのとおりだ、はつきりしろ」と呼応し、同巡査部長から「現在は応援に行つていない、又これから行くこともない」旨の言明を得て、午後〇時半頃同署を立去つたものであることが認められる。右に徴すれば、署内に立入つた約二〇名のほか、群衆の大半が右暴行や脅迫的行為に同調し又はこれを認容していることが窺われるのであつて、多衆の間に共同意思の成立していることは認め得られなくはない。(なお、右群衆の構成員は、二八日午後三時半頃から六時頃まで鈴木光雄が指揮して村上俊雄、朴重根等約百数十名が同町署に抗議デモに押しかけ、内約三〇名が署内に立入り、余儀なく署長が署前に立出るや、スクラムを組んで同人を取囲み、更に悪罵を浴びせながら小突き廻し、押しまくり、足蹴にする等して、制服のボタンや腕時計がちぎりとられた事件の群衆とほぼ同じである)。しかし、右の如く暴行等の程度は比較的軽微であつて、公安委員である原審公判証人服部梅雄の証言(統公一七冊三一五丁、三二三丁)に徴しても、一地方の公安を害する危険性を帯びるに至る程度にはならなかつたことが認められるのであり、騒擾にあたるものとはいい難い。
三 論旨は、同内郷町署に押しかけた群衆の行動は多衆、共同意思、暴行脅迫の三要件を充足し、該地方の静謐を害する危険性がある程度に達したものである旨主張する。
原判決は、署長室で署長に対し平市署へ応援警察官を出さない旨の誓約書を書くことを強要した鈴木磐夫や佐々木贇が、同署の平田次席と共に署前における古口巡査部長に対する群衆の暴行を制止し、そのために暴行をやめたと認められることからすれば、署長室における強要、古口巡査部長等に対する暴行等の所為に出た者相互の間に、共同暴行の意思があつたかは疑わしいのみでなく、その行為の程度において騒擾罪の成立ありとはなし得ない旨判断している。
ところで、原審公判(統公一八冊二一七丁以下)及び当審(控証二冊七一丁以下)証人塩谷重蔵、原審公判(統公一八冊三八八丁以下)及び当審(控証二冊一五〇丁以下)証人三瓶良助、原審公判(統公一七冊四七四丁以下、統公一八冊二五丁以下)及び当審(控証二冊一四八丁以下)証人古口定吉、原審公判証人(統公二五冊一四〇丁以下)平田直男、同(一八冊四二丁以下)中塚四雄、同(統公一七冊四〇九丁以下)中島キヨの各証言、及び被告人菅藤勝一(統証四冊五〇丁以下)、同鈴木勝利(統証五冊二三七丁以下、二四二丁以下)、同星野一二(統証三冊二二三丁以下、二二八丁以下、二三八丁以下)、同芳賀雄太郎(統証四冊三九八丁以下)、同日野定利(統証三冊一三八丁以下)、同熊田豊次(統証二冊三三五丁以下、三七二丁以下)の各検察官に対する供述調書を総合すれば、三〇日午後二時過頃、内郷町方面の共産党員及びその影響下にある多数の矢郷炭礦労組員、朝連関係者等を含む約百四、五十名は赤旗を立てて内郷町署に押しかけ、日野定利、鈴木磐夫、松木佐吉、熊田豊次、八代一郎、坂本津奈子等約二〇余名は赤旗を持つて署内に押入り、署長室で塩谷署長に対し「今日署員を集めたのはどういう訳か、平に応援を出すためだろう、応援を出さないと約束しろ」「どうして労働者を弾圧するのか」と迫り、同署長が「今のところ応援を出す考はない」と答えたところ、「署長は前にも約束を破つたから一筆書いて貰つたらどうか」と言つた者があつたため、更に同署長に対し交々「口約束だけでは駄目だ、一札書け」「どうしても書けないのか、書け、書けないなら武装解除するから拳銃と警棒を此処に集めろ」「書けぬなら署長をやめろ、ギロチンだ」等と怒号し、署長室東側南側の各窓は開け放たれ、そこから見ている署外の群衆の数十名の一団の中からこれに呼応して罵声を浴せ、事務室に押入つた数十名の中から「ぐずぐずしているなら叩込め」等と呼応し、署長室内では拳で卓子を叩くなどして執拗に誓約書を書くことを強要し、その際八代一郎等数名の者は、同署会議室に居つた巡査部長古口定吉を署長室に連行し、同人の従来の言動について難詰した上、更に同人を同署玄関前広場に引出し、署外の群衆もこれに加わつて約三、四十名が同巡査部長を取囲んで、鈴木磐夫は「この野郎、袋叩きにしろ、革命の時銃口を突付けるのはこの野郎だ、鶴嘴で頭を叩き割つてしまえ」と怒号し、他の者も「労働者を弾圧した悪い野郎だ、労働者に謝れ」と叫び、同巡査部長の胸倉を取り、突飛ばし或は蹴る等の暴行を加えながら三、四十分も引きずり廻して、矢郷争議の際の犠牲者に対する謝罪を要求し、巡査中塚四雄がこの状況を二階から写真撮影したことから、日野定利等二、三十名の者は同二階に上り込み、「写真をよこせ、フイルムをよこせ」と怒鳴りながら同巡査を取囲み、同巡査を押飛ばし或は蹴りつける等の暴行をなして、その下腿部に全治一〇日を要する傷害を与え、階下暗室で巡査部長三瓶良助からフイルムを奪取する等の暴行をなした上、午後三時直前時計を見ながら同署を引揚げて平市署に向つたことが認められる。
右に徴すれば、現実に暴行脅迫を行つた者のほか、群集の大多数が右暴行脅迫の行為に同調し、或はこれを認容していることが窺われるのであつて、多衆の間に共同意思の成立したことは認め得られなくはない。(なお、右群衆の構成員は、二七日午後八時頃日野定利、鈴木磐夫、松木佐吉、熊田豊次等約五、六十名が同署に抗議デモに押しかけ、殆んど全員署内に押入つて約三〇分間に亘り脅迫的言辞を以て応援警察官派遣を難詰した事件の群衆を主体とするものである)。原判決は共同意思の存在を疑う理由として署長に対し誓約書を書くことを要求した鈴木磐夫と佐々木贇が、署前における古口巡査部長に対する群衆の暴行を制止したことを挙げているが、原審公判(統公三七冊四八六丁)及び当審(控証二冊二一五丁)証人古口定吉及び原審公判証人(統公二五冊一六〇丁裏)平田直男の各証言によれば、鈴木磐夫や佐々木贇を含めた群衆から既に暴行脅迫を受けた後に、更に強い暴行が加えられた時にその一部の暴行を制止したのに過ぎず(しかも鈴木磐夫は前記の如き脅迫を加えながらも、他方では声やさしく「俺達の方に協力しておけ、そうすれば人民政府ができた時に使つてやるから」というように((原審公判証人塩谷重蔵の証言、統公一八冊二三二丁))、硬軟両様の使いわけをしているのである)、前記の如き或る時期の部分的暴行制止の外形があるからとて、その全体的共同暴行等の意思の存在を否定し去ることは困難である。また、原判決が「前判示の状況並びに事情に照し」といつているのは、おそらく、警備係古口巡査部長が矢郷争議に関し情報蒐集したやり方が個人的にも矢郷労組員等の反感を買つていたことが、当日執拗に暴行された事由であることを指していると思われる。成程、そうした事情のあることは先にも説明したところであり(その二の三の2参照)、また原審公判証人塩谷重蔵の証言(統公一八冊二三〇丁)に徴しても、当日内郷町署における群衆の暴行騒ぎの大半は、古口巡査部長に対する関係のものであることが窺われ、それは当日群衆が内郷町署に押しかけた平市署への応援警察官派遣阻止の目的意図とは直接関係はなく、偶発的なものとは認められなくはないが、それだからといつて、署長室における強要、古口巡査部長に対する暴行の所為に出た者相互の間に共同意思がなかつたとはいい難い。
しかし、右の暴行脅迫の程度は、古口巡査部長に対する個人的反感に基くものが大半を占めているとはいえ、相当の程度に達したとみられなくはないが、未だ必ずしも一地方の公安を害する危険性を帯びるに至る程度になつたものとは認め難く、本件事案の全体からみて未だ騒擾にあたらないものと解するのが相当である。
叙上説明の次第で、原判決には本件騒擾の規模及び湯本、内郷両町署における騒擾の成否に関し、事実誤認等の点がなくはないけれども、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明かであるとは認め難く、未だ原判決破棄の理由とはならない。論旨は結局理由がない。
その五 控訴趣意第二点中平市署における暴行脅迫の程度及び共同意思の存在に関する主張について
一 論旨は、本件群衆は地区委により計画動員された組織的闘争集団で、湯本、内郷両町署を制圧した後平市署に押しかけ、同市署前において警察官に暴行脅迫を加え、これを制圧して署内に侵入し、その後逐次侵入を続け、長時間に亘つて同署を不法占拠し、その間各種の暴行脅迫等に出たものであるから、これら一連の行動は一つの集団の予期した行動であり、謀議計画は別にしても、署前の暴行等は署内に侵入するためのもので、その侵入行為はこの場合同時に暴行とみるべく、侵入後の不法占拠自体が暴行であつて、その暴行の上に更に幾多の暴行が群衆の共同意思によつて敢行されたものであるから、署前の暴行等の所為と署内におけるそれとの間には聊かも空白なく、従つてその間意思の継続又は連絡があつたことが明らかであり、署前における暴行が一時的に中断し、或は個々の暴行脅迫が群衆の一部の者によつてなされた点を捉え、集団の意思とは関連なしに個々的、散発的になされたものとするのは、本件群衆の行動の実体に即し統一的包括的に観察することを怠つたものである旨主張する。
原判決は、本件群衆は平市署における多衆の暴行脅迫を予期して動員されたものではなく、平市署における群衆の一部四〇名前後の者による暴行等の所為は、一時の昂奮にかられた偶発的なもので、その後は交渉或は抗議という本来の意図に基いて行動し、警察官に対し引続き暴行等を持続していたものとは認め難いし、群衆に同署を不法に占拠する意図がなく、署内における暴行等の所為は大多数の群衆の意図とは関連なく、少数の者により偶発的に、或は個々的、散発的になされたものと認められるから、平市署前においてなされた右暴行等の所為と、その後群衆が署内に立入つてから署内においてなされた暴行等の所為とは、意思の継続或は連絡があるものとは認められず、それぞれ別個の法律判断に服するものと解せざるを得ない旨判断している。
そこで、記録を精査し当審における事実取調の結果に徴するに、平市署玄関前の衝突に際し、署前に集つた群衆約一〇〇名中四、五十名の者が警察官を殴打したり投石したりして乱闘中他の群衆の大多数はワツシヨワツシヨと掛声を発したり赤旗を振つたり等して気勢を添え、これに同調し少くともこれを認容する意思のあつたことを肯認し得るから、現実に暴行した四、五十名のみでなく、約一〇〇名の群衆の大多数に共同意思の成立したことを認め得るのである。そして、右乱闘が一応おさまつた後も、右群衆の大多数は乱闘の結果を背景に、更に多衆の不法な威力をたのんで気勢を示す雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながら、これを認容すると共に、事態の発展や相手の出方如何により時と場合によつては、更に暴行脅迫等の所為に出るかも知れないとの未必的共同暴行等の意思を持ち、代表は交渉し、他の群衆はこれを支援する態度をとつたことが証拠上諸種の事象から肯認し得られ、急を聞いて待機していた朝連浜通支部から馳付けて合流した一〇〇余名の群衆や、その後刻々馳付けた群衆の大多数も、棒を持つた多数同志や署前の乱闘の跡や話を見聞きし、或は幹部の激励演説を聞くうちに、署前の衝突を認識してその結果を背景に、前同様の雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容すると共に、同様の未必的共同暴行等の意思を持つて、右交渉を支援する態度に出たことが証拠上認められる。かくて、間もなく相当数の群衆の署内侵入となつて現われ、それが不法占拠の状態に発展して六時間余継続し、その間随時随所に行われた暴行脅迫や或は派生した留置所の被疑者奪還となつて現われたのである。されば、署前においてなされた暴行の所為と署内においてなされた暴行等の所為とは、共同意思の継続或は連絡がないとはいえないのであつて、それは一個の法律判断に服すべきものである。以下具体的に証拠に基いてその説明をすることとする。
1 平市署玄関前における衝突乱闘直前に署前に押しかけた群衆の数は、内郷町署を引揚げた群集中、最初にトラツクに乗り平市長橋町附近で下車して大貞料理店前を経て署前に到着した四、五十名と、次いで別のトラツクに乗つて平駅方面を廻つて署前に到着した四、五十名との計一〇〇名位と原判決は認定しており、そのトラツクの運転者である原審公判証人緑川昌吾(統公一八冊四七一丁)、同菅野広(統公一八冊四九五丁)の各証言によれば、いずれも五十名位乗つたことが認められ、福島民報記者である原審公判証人鈴木亀吉の証言(統公三一冊一六八丁以下)によれば、その他にオート三輪車で到着した者も認められるから、総数約一〇〇名であることは間違いない。右群衆のうち署前の乱闘の際、警察官に暴行し或は投石した者の数は四〇名前後に達すると原判決は認めており(警察官に暴行した者と投石した者を各二、三十名と認定している)、朝日記者である原審公判証人斎藤敏雄の証言(統公二一冊二五五丁)によれば、玄関口に押寄せた人数は二、三十名で、玄関口で群衆に応待した警部補の原審公判証人金田功の証言(統公二二冊二四丁、二五丁)によれば、最初の一団中七、八名と後者の一団中約二〇名が押寄せたもので、同警部補の髪を掴んで引きずり出して暴行する時、その周囲に集つた人数は二〇名位であり、同人は当審証人(控証三冊二〇〇丁裏)としても、同様に右暴行する時の人数は少くとも二〇名以上だと証言しており、同警部補を助け出そうと次々にとび出した警察官に暴行を加えたのであるから、警察官に暴行した者は少くとも二、三十名とみられる。投石した者の数は、磐城民報社長である原審公判証人野沢武蔵の証言(統公一九冊八七丁)によれば、二、三十名位というのであり、福島民報記者である原審公判証人三谷晃一の証言(統公一九冊一四九丁)によれば、二〇名位というのであるから、原判決認定の如く二、三十名とみてよい。結局、警察官に暴行し或は投石した者の数は四、五十名と認定して差支えない。そして、署前の衝突乱闘直前の状況は、被告人日野定利(統証三冊一四六丁以下)、同茂木正吉(統証三冊一一丁以下)、同藤咲普次夫(統証四冊四六六丁以下)の各検察官に対する供述調書、及び原審公判(統公二四冊二四丁、二五丁、四三丁)及び当審(控証三冊一九七丁乃至二〇〇丁)証人金田功、原審公判証人真野正太郎(統公二二冊二五二丁、二七〇丁)の各証言によれば、大貞料理店前を通つて四、五十名の群衆が署玄関前に到着し、玄関前に円陣を作つて赤旗を振り、スクラムを組み労働歌を合唱して気勢をあげ、そのうちの日野定利等七、八名が玄関口に押しかけ、玄関口に出た金田警部補に対し「暴長に会わせろ」と要求するので、「交渉があるなら代表三名にしてくれ」というと、「そんな馬鹿なことがあるか、何人でも通せ」と押問答しているうち、間もなくトラツクに乗つた四、五十名が署前に到着してとび下り、先着の一団と合流するや、そのうちの約二〇名が喚声をあげて玄関口に押寄せ、前の代表等と共に会わせろ入れろと言つて強いて押入ろうとするので、これを阻止しようする署員との間に押合いとなり、群衆中には棒でかかる者があり、署員も警棒で押しつけたりしたので、群衆中に「やつてしまえ」と叫ぶ者があり、いきなり二、三人が金田警部補の髪を掴んで引きずり出したものであることが認められる。
2 次に、読売記者である桑島茂光が事件後一個月ほどして証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊五七丁)によれば、「金田主任を引きずり出し暴行を加え、真野、安斎、谷各巡査等はこれを阻止しようとし、群衆はワツシヨワツシヨと気勢を添えながら、各巡査に暴行し、相互間に叩合い等が玄関の内外で行われた」旨、福島民報記者である鈴木亀吉が事件後一個月余して証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊八四丁裏)によれば、「金田主任の頭髪を掴んで群衆の中に引張り出し、同時に姿が見えなくなつたが、玄関前で五、六名の労働者が金田主任を倒し、叩いたり蹴つたり、洋傘や棒で叩く者等相当暴行を加え、これをみて助けようと署内から二、三人の警察官が飛出してきたが、また数名の労働者がこれを引張り出し、散々殴打したり、蹴つたりの暴行をなし、ワツシヨワツシヨと気合いをかけ、署庁舎目がけて盛に投石する者が出たのである」旨各供述しているのである。僅か五、六分の間に(後段認定)警察官一〇名に一週間ないし三週間の治療を要する傷害を与え、無数の投石をして硝子窓等を破壊したような乱闘であるから、現に警察官と乱闘し投石している者自身は、通常ワツシヨワツシヨと掛声を発しながらすると考え難いから、右ワツシヨワツシヨと掛声を発している者は、それ以外の群衆であるとみなければならないし、朝日記者である斎藤敏雄が事件後一個月ほどして証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊四七丁表裏)によれば、「数十名のデモ隊は四名ほどの巡査を棒を振り上げて殴打し、外に引張り出し、盛に殴る蹴るの暴行を加え、群衆がドンドン庁舎目がけて投石し、硝子の割れる音、物の毀れる音、群衆の喚声怒号が入りまじり、険悪な光景であつた」というのであるから、かかる喧騒の裡から聞えるワツシヨワツシヨの掛声を発している群衆は、相当多数の者とみなければならない。そして、市議で消防副団長である原審公判証人水竹伊之助の証言(統公二四冊一六八丁)によれば、「玄関正面の方から円陣で取囲んだ人達に向つて赤旗を振つており、投石は何人か判らぬがバラバラ投げていた」というのである。
右に照し、平市署員である原審公判証人安斎美芳の「一方では喚声をあげ、一方では歌を歌い、前の方でスクラムを組んでいる者もあり、斯様な状態で玄関の扉の直前まで上つてきた(乱闘のはじまる直前の光景)」旨の証言(統公二一冊四一五丁裏)、同原審公判証人橋本五作の「玄関入口ドアの硝子がその男に破られ、肱がその破れた所から出た。その前一面に二、三百人の労働者がおり、一寸角くらいの棒を手にし、或はスクラムを組んでいた(金田警部補が引きずり出された直後の光景)」旨の証言(統公二二冊三八〇丁裏)、同原審公判証人本田正治の「帽子に二個の石が当り帽子は吹飛ばされたが、これを拾い腕で目かくしするようにして玄関に出ると、金田警部補が鼻血を出し呆然としており、更にドアの所から出て見ると、多数の労働者が棒を持つたり、或は旗を振つていたようであつた」旨の証言(統公三二冊六一丁表)、同原審公判証人伊藤徳雄の「最初に玄関に出た時、円陣を作つて歌つていた人々の態度は誰か音頭をとり、スクラムを組んで左右に身を振りながら盛に気勢をあげていた」旨の証言(統公六冊九五丁裏)、平地区署長である原審公判証人橋本岩夫の「私も帽子を冠り、続いて出て行くと、玄関の前では石を投げたり、棒を振廻したり、怒鳴つたりしていたので、本田署長も私も、暴力はやめろ、話せば判るではないかと怒鳴つて制止した、労働者は老若男女合せて一〇〇名内外で、歌を歌い赤い旗を左右に振り、更に石を投げたりして喧々囂々たる状態であつた」旨の証言(統公三二冊三八七丁裏)、右と同趣旨の当審証人伊藤徳雄の証言(控証五冊五三丁表裏)、並びに当審証人本田正治の右同趣旨及び「群衆は玄関に向つて半円形に押寄せていて、女の人達も石を手拭に包んで振廻し、やつてしまえという調子であり、或は石を投げつけるような恰好をし、或は棒を振上げてやつてしまえと叫び、或は赤旗を振る者もあり、それから皆代表だから全部入れろというようなことを叫んでいた」旨の証言(控証三冊五七丁表裏)は、これを措信し得るのである。
以上を総合すれば、署前に集つた群衆約一〇〇名中四、五十名が警察官を棒で殴打したり、投石したりして乱闘中他の群衆の大多数はワツシヨワツシヨと掛声を発したり、赤旗を振つたり等して気勢を添え、これに同調し又は少くともこれを認容する意思のあつたことを肯認し得るから、現実に暴行した四、五十名のみでなく約一〇〇名の群衆の大多数に共同意思の成立存在したことを認め得るのである。殊に、本件約一〇〇名の群衆は、既に前段説明したように、約三、四十分前まで内郷町署において署員に対し暴行脅迫を加え、これに同調し少くともこれを認容してきた人々であることを思えば、仮令平市署前の衝突があれほどの事態になるとは予期しなかつたという意味においては偶発的といえようが、右乱闘に際し前記の如くその約一〇〇名の群衆の大多数に、共同意思の成立存在したことを肯認し得るのはむしろ当然であつて、右の意味の偶発性を以て原判決の如く共同意思の成立を暴行の直接実行者にのみ限定し、他の群衆につきこれを否定し去ることは困難である。原判決は、これを否定する一事情として、「署前の紛争は群衆中の制止やその頃玄関口に立出た本田署長等の制止によつて数分にして止んだ」としており、原審公判証人水竹伊之助(統公二四冊一八六丁以下)、同内藤武雄(統公二一冊一八三丁以下)の各証言、及び被告人佐久間信也(統証三冊一五九丁以下)、同緑川富治(統証六冊二六九丁以下)、同鈴木磐夫(統証六冊四九五丁以下)の各検察官に対する供述調書によれば、日野定利が群衆の投石を制止し騒ぎを静めたことは認められるが、同時に、それは既に署員一〇名が群衆の暴行によつて負傷し、窓硝子等が破壊されたあとのことで、本田署長が玄関口に立出で、「乱暴をやめよ、話せばわかる、代表三名と話す」と叫びかけて制止した頃で、日野が「静かにしろ、これから代表を出して話合うから静にしろ」と手を振り、群衆の騒ぎが一応おさまつたものであることが窺われるのである。右の事情であるから、それは右群衆の大多数に共同意思の成立存在したことを妨げるものではないのはもとより、日野自身についても、同人が衝突前何人でも通せと叫び、乱闘直後も全部入れないからこんなことになるのだと叫んだ事実、平市署に押しかける前自ら群衆を率いて内郷町署で脅迫等の所為をなしてきた事実、被告人熊田豊次も検察官に対し自分や日野定利、鈴木磐夫等がそばに居たのだから、群衆を制止すれば制止できたかも知れないが、当時はそんな考えも浮ばなかつた旨述べているように(統証二冊三二七丁)、党員等群衆に対し統制力のある同人等が真に制止する意思があれば、あれほどの事態にはならなかつたとみられなくはないこと等に鑑みれば、日野自身についても少くとも、これを認容する意思のあつたことを否定し得るものではない。
3 更に、乱闘が一応おさまつた直後も、群衆は或は石を投げつけるような恰好をし、或は棒を振り上げて「やつてしまえ」と叫び、或は女の人達も石を手拭に包んで振廻し「やつてしまえ」という調子で、或は「われわれにも聞かせろ、皆代表だから全部入れろ」と叫んでいたことは前叙のとおりであり(控証三冊五七丁表裏、五九丁)、原審公判証人伊藤徳雄の証言(統公六冊六〇丁、六二丁、統公三二冊五五四丁表裏)によれば、鈴木磐夫は「金田がいきなり警棒で俺の胸を突いてきたからこんなことになるのだ」と喰つてかかり、日野定利は「来た人達全部を入れて皆の声を聞こうとしないからこんなことになるのだ、三人位で話になるかい」と叫んだことが認められる。そして乱闘の際棒を持つていた多数の人達はそのまま棒を持つていたばかりでなく、被告人上津源三の検察官に対する供述調書(統証四冊二五六丁)に徴しても、「乱闘を恐ろしく感じて署の東側に廻つたが、その頃群衆は棒や石を持集めているようであつた」というのである。読売記者である原審公判証人桑島茂光の証言(統公二一冊三〇八丁裏)及び同人が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊五七丁裏)によれば、乱闘後締切時間のため署外へ出る時の状況は、正面玄関の所に大勢の労働者が居て何時石が飛んで来るかもわからない状況なので、裏口から出て電話で社に第一報を送り、直ちに署に引返したが、附近にある野菜屋の角の所には警察官から奪つたと思われる警棒を持つている者、警官の制帽を持つている者もあり(原審公判証人安斎美芳の証言((統公二一冊三九六丁))によれば、同人の飛ばされた制帽及び警棒とみられる)、群衆は手に手に棍棒を持つており、盛に労働歌を歌つて気勢をあげていたことが認められる。朝日記者である原審公判証人斎藤敏雄の証言(統公二一冊二四一丁)及び同人が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官の尋問調書謄本(分証一冊四八丁)、福島民友記者である後藤一六が事件一個月ほどして証言した、同証人に対する裁判官の尋問調書謄本(分証一冊九六丁裏)によれば、乱闘がおさまつて間もなく署長室で交渉がはじまつたが、破壊個所等を写真に撮ろうとすると、警察官と間違えられて群衆から投石されたりして妨害されたことが認められる。磐城民報社長である野沢武蔵が事件後半月ほどして供述した、同人の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一六三丁)によれば、同人は署前の衝突に際会し、午後四時二〇分一旦社に帰つたものであるが、その頃市署は無警察の状態とまではなつていなかつたが、署長室では二、三十名と思われる人達が署長と何か交渉しており、玄関内客溜の辺に署員は呆然と立つており、署前ではデモ隊がスクラムを組んで労働歌を歌い、相変らず気勢をあげており、その中で「署には応援警察官を一人も入れるな」と叫ぶ者があつて、玄関及び裏口の方に見張りを立てたことが認められる。勤労タイムス記者である小林清が事件後半月ほどして供述した、同人の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一七一丁裏)によれば、同人が湯本午後四時発のバスで来て平駅前で午後四時半頃下車し、一直線に平市署へとんで行くと、市署横隣りの野菜屋の角の所で、赤旗一本を立て棒など手にした二〇名位の一団があつて誰何されたことが認められる。福島民報記者である鈴木亀吉が事件後一個月余して証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊八七丁)及び同人の原審公判証言(統公三一冊一七九丁)によれば、同人は毎日バスで湯本から平の新聞支社へ通勤していた者であるが、午後四時半頃から五時少し前頃までの間に、五時少し過ぎのバスで帰宅するため平市署を出ると、市署附近にある野菜屋の前で、三人位の労働者が十五、六名の者に三尺位の棍棒を一本宛渡しているのを目撃し、又バスで帰る途中平市紺屋町東宝劇場先の三叉路辺で赤旗一本を持ち七、八名の労働者が立つているのを見て、湯本方面から応援警察官の来るのでも警戒するためこんな所まで来ているのかと思つたことが認められる。勤労タイムス記者である小林清が事件後半月ほどし供述した検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一七二丁)、被告人星野一二(統証三冊二二八丁以下)、同宍戸弘(統証五冊五丁以下)の各検察官に対する供述調書によれば、午後四時頃市署玄関前に集つた労働者連中二〇名位がスクラムを組んで中に入れろと玄関口に押しかけて騒ぎ、朝鮮人のある者は奥へ入つて暴れようと言つており、前面の数名が玄関口にいた二、三の警官と押問答をし、署内から幹部の朝鮮人と日本人が出てきて、皆が中に入ると交渉がうまくなくなるから入るなと押返したことが認められる。金内直の検察官に対する供述調書(統証一冊九丁以下)によれば、同人は午後四時過頃平市署に来たが、一時間も経つた頃署外の群衆中二、三人の労働者が石を打つけて署の硝子窓を打毀しており、署内でも物を毀すような音が聞こえたことが認められ、原審公判証人鈴木忠正の証言(統公二三冊二六八丁)によれば、同人が磐越東線平駅着午後五時二九分の汽車で来て市署前に来ると、署前の群衆の大勢の人達が傘や棒を持つているほか、小石をポケツトに入れる者も見受けられたことが認められる。また原審公判証人安沢敏夫の証言(統公二一冊一四九丁、一五三丁)によれば、午後五時退庁で五時半頃平市署の東北約一〇米位の所にある父の住宅建築工事場に行くと、大凡三〇人位の労働者がそこの材木置場に来て「われわれは武器がないからその棒切を貸してくれ、警察の連中が暴れたらこれで殴るんだ」と言つて、長さ二、三尺位の太さ一寸五分か二寸角位のもの大体三〇本位を持去られたことが認められる。
他方、被告人菅野三春(統証二冊三九九丁以下)、同石井三信(統証六冊三二二丁以下)、同西原新七(統証四冊三六〇丁裏)、同新妻武夫(統証三冊四二六丁裏)の各検察に対する供述調書、被告人東務(分証七冊一〇丁裏)、同引地正(分証四冊四七八丁以下)の各検察官に対する供述調書謄本、福島民報記者である三谷晃一が事件後一個月ほどして証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊六三丁以下)によれば、朝連浜通支部事務所に待機していた群衆は、午後三時半過頃若者が自転車で来て只今市署前で警官と衝突して同志一人がやられたと報告したので、皆殺気立ち、村上俊雄と朴重根の命令で約一〇〇余名が赤旗を立てスクラムを組んで午後四時過頃市署前に馳付け、署前で警官と衝突した群衆は拍手してこれを迎え(分証七冊一〇丁裏)、合流して二〇〇余名となり、スクラムを組み労働歌を高唱して気勢をあげているうちに、諸方面から同志が続々馳付けて参加し、その人数を増して行つたことが認められる。被告人朴鐘根の検察官に対する供述調書謄本(分証七冊四二四丁表)によれば、同人の兄の朴重根は朝連浜通支部から支署前に馳付けるや、最初は署内に入らずに玄関前石段の上に立つて、署前の共産党員や労働者に向い「われわれも失業者だから団結を固くして断乎闘争しよう」という演説を二回ほどしたことが認められ(朴重根は昭和三〇年一月一八日死亡)、福島民報記者である鈴木亀吉が事件後一個月余して証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊八六丁)、高橋初治(統証二冊四三一丁)、被告人菅野三春(統証二冊三九九丁以下)、同平川一郎(統証五冊八一丁)の各検察官に対する供述調書によれば、午後四時半前後頃には日野定利や村上俊雄等が激励演説等したことが認められる。金内直(統証一冊九丁以下)、被告人舟山義秋(統証二冊二〇七丁以下)、同伊藤林蔵(統証三冊二八一丁以下)、同国井光政(統証三冊四四八丁以下)、同董時活(統証三冊四八九丁以下)、同石川義紀(統三冊四七五丁以下)、同小林好幸(統証三冊二五〇丁以下)、同星野一二(統証三冊二二八丁以下)、同佐川市右衛門(統証三冊三一二丁以下)、同舟木寛一(統証四冊四五二丁以下)、同西原新七(統証四冊三六一丁以下)、同宍戸弘(統証五冊五丁以下)、同石井勝男(統証五冊二一三丁以下)、同金竜洙(統証五冊一七五丁以下)、同武藤弘(統証六冊二九二丁以下)、同出沼春男(統証六冊四四六丁以下)の各検察官に対する供述調書、朴申道(分証一冊二三四丁以下)、被告人小野農武夫(分証四冊一一二丁以下)、同引地正(分証四冊四八八丁以下)の各検察官に対する供述調書謄本によれば、平市署前の衝突乱闘後朝連やその他から馳付けた同人等は、署玄関附近の窓硝子等がメチヤメチヤに破壊されているのや、玄関前に沢山の石があるのを目撃し、或は同志から署前の衝突で双方に負傷者が出たことを聞いて、相当の乱闘があつたことを知つたことが認められ、更に署前の群衆中には棒を持つた多数同志が見られるのであるから、署前の衝突後馳付けた群衆の大多数は署前の衝突を認識したことが窺われるのである。
一方、被告人熊田豊次の検察官に対する供述調書(統証二冊三二七丁、三二八丁)朝日記者斎藤敏雄が事件後一個月ほどして証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊四八丁)、原審公判(統公六冊六五丁乃至六六丁、統公三二冊五五六丁、統公四五冊一〇〇丁)及び当審(控証五冊五六丁、五七丁)証人伊藤徳雄、原審公判(統公三冊八四丁、統公三二冊六四丁、六五丁)及び当審(控証三冊六四丁、六五丁)証人本田正治の各証言によれば、署前の乱闘がおさまつた直後、群衆が全部代表だから皆入れろと叫ぶのを聞きすてて本田署長は署内に入り、伊藤次席は代表五名を黙認し、続いて間もなく日野定利、鈴木磐夫松木佐吉、熊田豊次、佐々木贇等五名が署長室に入つて、本田署長、伊藤次席、橋本地区署長と相対し、昂奮のうちに警察が先に手を出した、いや違うと言合い、連絡員、新聞記者等も入つて来て十数名となつたが、午後四時過頃急を聞いて馳付けた鈴木光雄、金明福、金逢琴等が署長室に入り、鈴木光雄が主代表となつて掲示板問題の交渉をはじめたことが認められる。勤労タイムス記者である小林清が事件後半月ほどして供述した、同人の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一七三丁)によれば、同人が午後四時半過頃署内に入ると、署長室に群衆が二〇名位入つており、その西側南側の窓は開放され、西側では塀越しに二〇名位、南側ではその窓下に多数の群衆が立つて署長室をのぞき込むようにして何か声援していたことが認められ、毎日記者である大塚正勝が事件後一個月余して証言した、同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊一〇三丁裏)によれば、その署長室での交渉中鈴木磐夫は「この警察が人民のものになるのは一個月そこそこのことだ」等と言つたことが認められる(福島民友記者である後藤一六が原審公判証人((統公二〇冊一五九丁、一八二丁))として、その交渉中鈴木磐夫が「掲示板はいつまでも許可しろとはいわない、人民政府ができるまででよい」等と言つていた旨供述しているのは、同人が事件後一個月余して証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本((分証一冊九〇丁以下))に徴し、二七日の交渉の際のものと記憶違いしたと認められる)。原審公判(統公六冊三六丁)及び当審(控証五冊五九丁)証人伊藤徳雄の証言によれば、その際の署長室の群衆中には棒切や竹棒を持つた者もあつて、その棒で床をドン、ドン、と突くことがあり、或は窓外の板塀から窓に足をかけ、或は板塀を叩く者があり、原審公判証人橋本岩夫の証言(統公三二冊三九二丁、四二三丁)によれば、その際本田署長の机の上に土足で上つた者も二、三人あり、「この馬鹿野郎、やつてしまえ」等という者もあり、当審証人本田正治の証言(控証三冊七一丁表、七二丁裏)によれば、署長室内の群衆中には「署長ずるい、やつてしまえ」等と叫ぶ者や、署長室窓外際周辺の群衆中には「署長出ろ、やつてしまえ」等と叫ぶ者もあつたことが認められる。
また、本件群衆の構成員は、署前衝突の際集つていた約一〇〇名は前記の如く三、四十分前内郷町署で暴行脅迫をなし、或はこれに同調し認容して来た群衆であり、朝連から馳付けた一〇〇余名は、その日の昼前湯本町署で脅迫的に平市署へ応援警察官を出さない旨確約させて引揚げた群衆であり、その後馳付けた群衆も、右朝連に残つていた者達や前記内郷町署を引揚げた群衆中トラツクに乗りおくれた人達がその大半を占めているのである。そして、金内直(統証一冊九丁以下)、被告人菅野三春(統証二冊四〇九丁以下)、同金竜洙(統証五冊一七五丁以下)、同舟木寛一(統証四冊四四六丁以下)、同上津源三(統証四冊二六〇丁以下)、同直井稔(統証四冊二三七丁以下)、同藁谷好太郎(統証四冊一七九丁以下)、同鈴木伝雄(統証三冊三八八丁以下)の各検察官に対する供述調書によれば、同志が乱暴したりしたのは知つているが、すぐ帰るわけにはいかず、党や組織の一員として勝手な行動をとることは許されないので、警察の不当な弾圧を団結の力で解決しようとする団体の構成員として、一人でも余計に居た方が有利であると考えて行動を共にしたというのであり、本件群衆の大多数が共産党員及びその影響下にある労組員や朝連関係者等の組織大衆で、幹部の指揮統制に服する人達であることを思えば、その大多数の気持がほぼ右と同様であつたことが窺われるのである。
以上認定の各事実及びこれを認めた諸証拠と、既に認定説明した署前衝突の際署前に集つていた約一〇〇名の群衆の大多数が、警察官一〇名に前記傷害を負わせ窓硝子等を多数破壊した乱闘に同調し、少くともこれを認容していた事実及びこれを認めた諸証拠とを総合し、後段詳細に証拠を挙げて説明する如く、署内に群衆が立入つたのは、午後四時頃からぼつぼつ侵入しはじめ、午後五時前後までに約一〇〇名に達して赤旗を振り労働歌を合唱する等交渉支援のため騒然とし、午後五時半頃幹部から署長の許可が出たから入れといわれて立入つた大多数の群衆も共に労働歌を高唱し、棒で床を突鳴らし足で踏鳴らす等喧騒を極め、多衆の不法な威力を恃んでの交渉を支援する意思で立入つたもので、真に許可が出たものと信じて入つたものとはみられず、その頃幹部により署玄関柱に大赤旗二本が交叉掲揚され、それを見た群衆の大多数はこれを認容している状況で、幹部の激励演説等があるとこれを聞いた群衆は拍手喝采し、暴力団来襲の情報で幹部の指揮により市内各要所に棒等を持つた見張り警備隊が配置され、夜になつてからは殆んど専ら応援警察官に対処するため配置が続けられ、他の群衆はこれを認容している状況で、このような署内に侵入した群衆が最初から同署を不法に占拠する意図があつたとは認め難いが、少くとも赤旗を交叉掲揚した時から代表幹部中にこれを不法占拠する意思があり、他の群衆の大多数は不法占拠の状態にあることを認識しながらこれを認容していたと認められる事実、署長室や二階刑事室におけるいわゆる交渉は、署長や公安委員に対し多衆の不法な威力を背景に時折「やつてしまえ」など怒号する等脅迫的言動があつて、相手方をして応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させ、又事務室や客溜廊下等で署員に暴行脅迫したり、電球等を叩毀したりした者は少数であるが、これは多衆の威力を恃んでなしたもので、他の群衆の大多数はこれを認容していたと認められる事実、及び留置場の被疑者奪還ははじめからかかる事態が起るとは予期しなかつたという意味で偶発的であるが、留置場内に押入つた十数名はもとより留置場前に押しかけた数十名にも共同意思が認められるばかりでなく、署長室における代表幹部等もこれを認容していたと認められる事実及びこれらを認めた諸証拠を参照総合すれば、署前の乱闘が一応おさまつた後も、既に共同暴行等の意思の成立したその約一〇〇名の群衆の大多数は、乱闘がおさまると同時にその共同意思が全面的に消滅したのではなく、乱闘の結果を背景に更に多衆の不法な威力を示して相手方をして応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないという畏怖の念を起させる気勢を示す雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながら、これを認容すると共に、事態の発展や相手の出方如何により時と場合によつては更に暴行脅迫等の所為に出るかも知れず(例えば、或は交渉中さらに脅迫的言動が行われるかも知れないし、署内に群衆が多勢侵入して行くかも知れず、或は応援警察官が来れば乱闘になるかも知れないし、来なくとも相手と次第によつては署員等に暴行脅迫をなしたり器物を毀したりするかも知れず等)、その暴行脅迫の所為に出る者は多衆の威力を恃んでなすもので、他の群衆はこれに同調し少くともこれを認容するという未必的共同暴行脅迫の意思を持ち、代表は交渉し、他の群衆はこれを支援する態度をとつたことが肯認し得られるし、急を聞いて待機していた朝連から馳付けて合流した約一〇〇余名の群衆やその後刻々馳付けた群衆の大多数も、棒を持つた多数同志や署前の乱闘の跡や話を見聞きし、或は幹部の激励演説を聞くうちに、署前の衝突を認識して、前記雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容すると共に、前同様の未必的共同暴行脅迫の意思を持つて、右交渉を支援する態度に出たことが肯認し得られるのである。かくて、間もなく相当数の群衆の署内侵入となつて現れ、それが不法占拠の状態に発展して六時間余継続し、その間随時随所に行われた暴行脅迫や、或は派生した留置場の被疑者奪還となつて現われたものと見られるのである。従つて、署前においてなされた暴行等の所為と署内においてなされた暴行脅迫等の所為とは共同意思の継続或は連絡がないとはいえないのであつて、それは一個の法律判断に服すべきものである。
二 論旨は、平市署前において群衆のなした暴行は、警察の挑発に基因する偶発的事情に基くものではなく、警察に対し実力を以て対抗することを企図する集団の臨機応変の行動で、警察側が集団の要求に応じなければ必然的に執らるべき予定の闘争手段であつたと認められ、即ち、先着の群衆中七、八名が金田警部補と押問答をしているうち、トラツクで乗りつけた後着の一団がこれに合流し、多衆を恃んで一挙に署内に侵入しようとした群衆がこれを制止しようとする金田警部補をやにわに引きずり出し、殴る蹴るの暴行に出たもので、群衆の一人が負傷したのは金田警部補が引出された後のことであり、更に金田警部補を救援するるため出た署員にも次々暴行を加え、又玄関口に投石するに至つたもので、その際群衆に対し拳銃を擬した署員はなく、結局右衝突の契機は群衆が多衆の力を以て敢て署内に押入ろうとしたのが原因であつて、全員につき共同意思の存在が当然認めらるべきである旨主張する。
原判決は、平市署前において群衆のなした暴行は偶発的事情に基くもので、即ち、先着の群衆中の七、八名が金田警部補と押問答をしているのを見た後着の群衆が、警察側で一切の入署を拒否し或は交渉に応ずる意思がないものとの誤解に出たため敢えて署内に押入ろうとしたので、署員との間に押合い揉合いとなり、その際署員が警棒で突き殴り、そのため群衆の一人が頭部に裂傷を負い流血をみるに至り、かかる態度に憤慨して同警部補を引出して暴行を加え、引続き他の署員にも暴行を加え、更にその頃署員中に拳銃を擬する者があつたこと等から玄関口等に投石するに至つたものであつて、警察官に対する暴行或は投石をなした四〇名前後の者の間にだけ共同意思が認められる旨判断している。
そこで、記録を精査し当審における事実取調の結果に徴するに、平市署前に群衆が押しかけた際行われた暴行は、あれほどの事態になるとは予期しなかつたという意味においては偶発的といえようが、群衆が署内に押入ろうとしたのは後着の群衆が誤解したがためであり、警察官に傷害を加えたのは警察の方で群衆の一人に裂傷を負わせたのが原因であり、玄関口等に投石するに至つたのは拳銃を擬する署員があつたのが主因であるという事情は認め難い。即ち、先着の群衆中の七、八名が代表三名にせよ制止する金田警部補と押問答をしているうち、後着の群衆がトラツクからとび下りて合流するや否や、いきなりそのうちの二、三十名の者がワアツと喚声をあげて殺到し、署員の制止をきかず多数をたのんで強いて署内に押入ろうとしたのが契機であり、強いて押入ろうとする群衆とこれを阻止しようとする署員との間に押合いとなり、群衆中棒でかかる者があり署員も警棒で押しつけたりしたので、「やつてしまえ」と叫ぶ声があり、いきなり金田警部補の髪を掴んで引張り出して暴行を加えたものであつて、群衆の一人が裂傷を受けたのは同警部補が引張り出された後の出来事であり、血を見た群衆は益々いきり立つて、次々に同警部補救出にとび出してくる署員を取囲んで棒等で暴行を加え、署員の出てくる玄関口等に投石しはじめるに至つたもので、その際拳銃を群衆に擬する署員のあつた事実は認められない。右の経緯で、警察側の態度には急迫不正の侵害行為はもちろん挑発刺戟的行為もなく、群衆側の所為には正当防衛を以て目すべき余地は存しない。なお、右約一〇〇名の群衆の大多数に共同意思の認められることは前段説明のとおりである。以下具体的に証拠に基いてその説明をする。
1 本件六月三〇日午後三時直前内郷町署を引揚げた群衆中の一団が平市長橋町附近でトラツクを下車し、赤旗を先頭に四列縦隊で労働歌を合唱しながら田町大貞料理店前を経て平市署前に到着した時刻が午後三時三〇分頃であることは、当時時計を見た原審公判証人真野正太郎の証言(統公二二冊二四七丁)により明らかで、更に間もなくトラツクで平駅方面を廻つて市署前に乗りつけた一団がこれに合流し、その他オート三輪車で到着した者等もあり、それら群衆の総数は約一〇〇名であること、そのうち警察官に暴行し或は投石した者の数は四、五十名であるが、右約一〇〇名の群衆の大多数に共同意思の認められることは既に前段で説明したとおりである。なお、右乱闘の継続時間は、福島民友記者である小泉辰雄が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊七四丁裏)及び同人の原審公判証言(統公二三冊四五五丁)、読売記者である桑島茂光の原審公判証言(統公二一冊三〇八丁表)、福島民報記者である三谷晃一が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊六六丁)、福島民報記者である鈴木亀吉が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊八四丁裏)、原審公判証人本田正治(統公三二冊一〇二丁)、同真野正太郎(統公二二冊三〇三丁)の各証言を総合すれば、その継続時間は五、六分間とみるのが相当である。
2 そこで、本件市署前の衝突の契機及び状況をみるに、
(イ) 福島民友記者である小泉辰雄が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊七三丁、七四丁裏)によれば、「市署にいると、午後三時半頃約三〇名位署に向つて来るのを認め、間もなく一団の群衆が玄関口に到着し、金田警部補と何か話しており、同警部補は両手を拡げて侵入を防止するような態度で、群衆の一人から頭を叩かれ手首や頭の辺を掴まれて外へ引出され、群衆に叩かれたり蹴られたりの暴行を加えられ、他の二、三人の巡査も群衆の中に引込まれ、その中の一人は道路に引出されて叩かれ蹴られるの暴行をされ、真野巡査も清水医院の方に向つて引張り出されて同様の暴行を受けるのを目撃した。金田警部補が暴行される際群衆はワアツと喚声をあげ、方々から庁舎目がけて盛に投石し、ガラスの破れる音が盛になり、破片が室内に飛び、附近には居れない状況で、自分は署の便所の方へ一時逃げた。かかる暴行は約五分位で終つた」というのであり
(ロ) 福島民報記者である鈴木亀吉が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊八三丁、八四丁裏)によれば、「午後三時二〇分頃福島民報支社にいると、労働歌の合唱が聞えたので飛出すと、大貞料理店前通りを市署に向つて、二、三本の赤旗を先頭にスクラムを組み、五列縦隊で約五、六十名のデモ隊が行進して行くのを見たので、直ぐ後について市署へ行つた。到着と同時頃に平駅の方からトラツク一台に鈴なりになつて赤旗を立てた約五〇名の労働者が到着し、バラバラとび下りて合流し、又掻槌小路の方から自動三輪車で約七、八名位が来て合流し、同時にワアツという喊声をあげて玄関口に向つて雪崩れを打つて押寄せ、金田主任は玄関の戸の所で片手をあげて侵入を制止していた様であるが、すぐパリパリというガラスの壊れる音がし、主任は頭髪を掴まれて群衆の中に引張り出され、同時に姿が見えなくなつたが、玄関前で五、六名の労働者が金田主任を倒し、叩いたり蹴つたり洋傘や棒で叩く者等相当暴行を加え、これを見て助けようと署内から二、三人の警官がとび出して来たが、又数名の者がこれを引張り出し、散々殴打したり蹴つたりの暴行をなし、ワツシヨワツシヨと気合をかけ、署庁舎目がけて盛に投石する者が出たのである」というのであり
(ハ) 朝日記者である斎藤敏雄が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊四七丁表裏)によれば、「市署に来ると既に先着隊四、五十名が赤旗を立てワイワイ騒立てており、そこへトラツクの一隊が到着し下車して合流し、気勢をあげながら署玄関に押寄せた。自分は玄関口と野菜屋との間の道路で写真を撮ろうと立つていると、玄関口のコンクリートの段上で数十名のデモ隊が四名ほどの巡査を棒を振上げて殴打し、外に引張り出し、盛に蹴る殴るの暴行を加え、この暴行者の中には女が棒を持つて殴るのもあり、安斎巡査は附近道路に倒され、散々棒や傘などで殴られ、這うようにして署内に逃帰るのを見た。その暴行と同じ頃玄関のガラス戸に投石する者があり、ガラスの割れる音と同時に群衆がドンドン庁舎目がけて投石し、ガラスの割れる音、物の毀れる音、群衆の喚声怒声が入りまじり、険悪な光景だつた」というのであり
(ニ) 福島民報記者である三谷晃一が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊六五丁、六六丁)によれば、「午後三時半頃民報支社にいると労働歌が聞えてきたので、市署へ行つてみると、内郷の方から来たと思われる一隊のトラツクが到着し、先着の群衆と合流し、盛に気勢をあげていた。玄関口ではデモ隊が入れろ入れろと叫び、入口を塞いで入れまいとする警官と揉合つており、一人の警官が表の方へ出ると忽ち乱闘がはじまり、警官は群衆に倒され、相当暴行された。その頃群衆は喚声をあげ、庁舎目がけて盛に投石しはじめ、約二、三分間名状し難い乱暴狼藉が続いた」というのであり
(ホ) 読売記者である桑島茂光の原審公判証言(統公二一冊三〇三丁乃至三〇八丁)によれば、「自分が署に居ると、午後四時頃労働者の気勢をあげる声がするので、玄関の受付台へ行くと、玄関一方のドアが開いており、瞬間的のことで前後が判然しないが、とにかく労働者が押しよせてくる、金田警部補が『交渉があるなら代表者だけ出せ』と言つて制止する、即ち中へ入ろうとする人を制止しようとしたが、きき入れられず乱入されてしまつた次第で、制止したのは玄関ドアの線で、とにかくあそこが一杯になるほど大勢だから警官からすれば衆寡敵せずといつた状態だつた。そのうち殴合いになつて警官の方でも応援に馳付け、一人だけ中に入つた群衆は利川であつた。何れが先に殴つたとはいえない。石を投げた時間は五分位と思う」というのであり
(ヘ) 被告人鈴木勝利の検察官に対する供述調書(統証五冊二四四丁以下)によれば、「内郷町署附近からトラツクに乗り平市長橋町で下車し、行列して大通りから市署前の路地を抜けて同署前に押しかけた。すると間もなく駅の方からトラツク一台に満載になつた仲間の労働者の一隊が到着してわれわれと一緒になり、玄関先から中へ入ろうとしてつめかけた。この時自分はその人達の中程に居たから玄関のドアを挾んで警官との間にどんなことが起つたか細かいことは判りかねるが、とにかく警官の方はドアの内側に居て労働者を入れまいとし、労働者は署長に会わせろと言つて衝突を起したのである。玄関口のドアのガラスが破れたのはこの時であり、警官が警棒で中に入ろうとする者を殴つたり、逆に警官が外に引出されて殴られたり、投石がはじまつてそちこちの窓ガラスが割れたり、大変な騒ぎになつた。自分はこの間恐ろしくなつたから脇の広場の方に衝突を避けてみていた。その時伊達重春が殴られて倒れたので、自分や労働者達が抱き起して附近の医者へ連れて行つた」というのであり
(ト) 被告人斎藤隆行の検察官に対する供述調書(統証六冊三五八丁裏)によれば、「平市署前でトラツクを下車すると、既に先着隊何十名かが署前に集つていて歓迎してくれる様子であつた。それから玄関前で警官と押合いがはじまり、警官が引出されて七、八人に取囲まれて殴られるのや、伊達重春が誰かに殴られたのか頭から血を出すのを見たが、その頃投石が起き窓が毀れた」というのであり
(チ) 被告人鈴木静の検察官に対する供述調書(統証三冊三七八丁)によれば、「市署に着くと直ぐスクラムを組み労働歌を歌いはじめ、玄関に警官が五、六名居るのが見えたが、間もなく内郷の人の乗つたトラツクが署前に到着して自分達に合流すると、同時に皆ドツと玄関口に押しかけて行き、それから玄関に居た警官と衝突が起り、警官を表に引張り出して乱暴したり、石を投げたり大騒ぎとなり、労働者も伊達重春が怪我をした」というのであり
(リ) 被告人藤咲普次夫の検察官に対する供述調書(統証四冊四六六丁)によれば、「自分達が市署前に到着し、スクラムを組み労働歌を歌つていた時二番目のトラツクが駅の方から来て四〇人位下車して合流した。後着の人達は歌を歌うひまもなくいきなりワアツと玄関口から署内に入ろうとしたところ、警察側は入つてはいけないと揉合つているうちに、警官の一人が群衆に引きずり出されて、玄関口に向つて右側の溝近くで矢郷の人らしい者と取組んで上になり下になり殴合つていると、側にいる二、三人がやはり警官に殴りかかつているところへ、署長が出てきてとめた」というのであり
(ヌ) 被告人堀川浩吉の検察官に対する供述調書(統証二冊一四八丁)によれば「自分達が先着隊で、着いた時は自分は前方におり鈴木磐夫が先頭になつていた。玄関口ドアは一部が開いており、警官が玄関の内側に居て自分達の入るのを止めるようにした。その時駅の方からトラツク一台が満載して到着し、朝鮮人らしい者が目立ち、赤旗を持つたりしてワアツととび下りた。これにわれわれも勢づいている中に、玄関口に向つて大勢が押しよせて来た。その勢で自分は押されて腕の右肘が硝子に強く当つたので割れて響き渡つた。その時日野定利が下がれと言つて自分の腕を引いたので引下がろうとすると、或る警官が引出されて殴られた。又その時誰だか同志が叩かれて頭を割られたと叫ぶ者があり、自分もその時誰からか頭を殴られた。われわれもやられると思つて気持も乱暴になり、野菜屋の裏手へ行つて長さ三尺太さ一握り程の丸太棒を拾つて戻り、或る警官が同志に囲まれて倒され殴られていたので、自分も勢づいてその棒で警官目がけて殴りつけた。この間に石投げがはじまり、あちこちの硝子が割れ、いかにも乱闘気分が漂うた」というのであり
(ル) 被告人日野定利の検察官に対する供述調書(統証三冊一四六丁)によれば「自分達の一隊が市署に行つた先着隊で、署前でインターを歌い、自分と鈴木磐夫が先頭に立ち、署玄関に上り、玄関前に出ていた警官に『掲示板で来たから代表を署長に会わせろ』と申込んだら、『会わせられない』と言われ、会わせろ、会わせないで押問答している時、金田主任は両手を拡げて入口に立つており、その後方に警棒を持つた署員七、八名が居た。その時自分の少し前に居た鈴木磐夫が『やつたな』と怒鳴るのを聞いた。それを切つかけに前に居た労働者二、三人が署内に引込まれ、署員二、三人が表に引出され、打つ蹴る殴るの乱闘がはじまり、怪我人が出たようである。その頃群衆が署に石を投げはじめた」というのである。
以上に徴すれば、本件衝突の契機は署前に押寄せた群衆が署内に強いて押入ろうとしたためであり、そのため群衆と警察官と押合いとなつたが、金田警部補が群衆に引張り出されたのは、警察官が警棒で伊達重春の頭部を殴つて裂傷を負わせたためではなく、伊達が負傷したのは金田警部補が引張り出された後であることが窺われ、ただ伊達の血を見た群衆が益々いきり立つて暴行を逞うしたことが窺われるだけであり、なお鈴木磐夫(同人は警察官が拳銃を擬した旨検察官に供述している)と一緒に先頭にいた日野定利も拳銃を擬した警察官のあつたことは何等述べていないのである。原判決は、群衆が署内に敢て押入ろうとしたのは後着の群衆が警察側で一切の入署を拒み、或は交渉に応ずる意思がないものとの誤解に出たためであるとしているけれども、後着の群衆がワアツと喚声をあげて押寄せて殆んど問答する暇もなく金田警部補を引張り出しただけのことで、斯く推定するに足る資料に乏しく、むしろ、既に説明した如く、乱闘の直前金田警部補が「代表三名を選んで通つて貰いたい」というと、「そんな馬鹿なことがあるか、何人でも通せ」と叫んでいた事実、乱闘を本田署長等が制止して一応おさまつた直後も、群衆は「われわれにも聞かせろ、皆代表だから全部入れろ」と叫び、日野定利等も「来た人達全部を入れて皆の声を聞こうとしないから、こんなことになるのだ」と叫んだ事実、二七日平市署及び内郷町署に群衆が押しかけた時も、二八日湯本町署に群衆が押しかけた時も、三〇日湯本、内郷両町署に群衆が押しかけた時も、いずれも一〇〇名前後の群衆中数十名の者が先ずいきなり署内に押入つている事実等に徴するときは、最初から少くとも数十名の者が署内に押入る考であり、後着部隊に勢づいて共に強いて押入ろうとしたものとみるのが相当である。原判決は、群衆と警察官と押合いしているうちに警察官が積極的な反撃に出て警棒を揮つて突き、あるいは殴つた旨認定しているが、市署員である原審公判証人真野正太郎の証言(統公二二冊二五二丁以下)によれば、同人が制止をきかず強いてドアを開けようとする伊達重春の肩を警棒で叩くつもりで誤つて伊達の頭に当つて、警棒の先が折れたのであるが、その前に押し合いがはじまつた時、樫棒らしい棒を持つた群衆の一人が同人にかかつてきたので、警棒で受止めた時強く手に響いたから、その際警棒にヒビでも入つたのではないかと思うというのであるが、医師である証人安斎徹に対する原審尋問調書(統証一三冊五丁)によれば、伊達重春の傷は全治約一週間の前頭部創傷であるから、かかる程度の傷害を与えたために警棒が折れる筈なく、その前に群衆の一人が樫棒らしい棒で打ちかかつてきたのを受止めたという前記真野証人の証言はこれを措信するに足り、金田警部補が引張り出される前、既に棒を持つている群衆が何人もあつて(このことは原審公判証人橋本五作の証言((統公二二冊三八〇丁裏))からも窺われる)、群衆の方から棒でかかつてきたとみられる事実、前段説明の如く二九日の湯本町署における四署長会談で事を穏便に運ぶ方針で、本田署長も当日朝部下一同に対し相手方を刺戟しないよう訓示し、金田警部補もその趣旨を体して無帽無装備で玄関口に立出たものである事実(福島民報記者鈴木亀吉が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本((分証一冊八三丁裏))からも窺われる)、本件乱闘で群衆側は右伊達一人が負傷しただけであるのに、警察側は治療一週間ないし三週間を要する挫傷、裂傷、打撲傷等の負傷者一〇名を出した事実(統証一冊三五丁以下、医師木村淳作成の金田功等一〇名に対する診断書)等に鑑みるときは、警察側から先に積極的に警棒で突いたり殴つたりしたものとはみ難く、群衆側で棒等でかかつてきて防ぎきれなくなつてからは警棒を揮つたのはともかくとして、最初押合つている時は警棒の両端を両手に持ち押寄せる群衆を押返していた(原審公判証人道向久右衛門の証言((統公二三冊二一一丁))及び鈴木康一の検察官に対する供述調書謄本((分証一冊二九九丁))参照)ものと認めるのが相当である。原判決は、警察官が積極的な反撃に出たことの一資料として署員中に群衆の代表であると否とに拘らず誰でも署内に入れるなと指示されたと信じていた者(真野正太郎、遠藤正利)も見受けられることを挙げているが、同人等が朝の訓示でそのように指示されたと信じたとしても、衝突直前同人等は金田警部補の背後にいて、同警部補が代表三名だけ入れると叫んでいるのを聞いているのであるから、原判決のいうような資料にはなり得ない。
以上に照し、平市署員である原審公判(統公二二冊二二丁以下)及び当審(控証三冊一九七丁以下)証人金田功、原審公判(統公二三冊五八丁以下)及び当審(控証四冊一二五丁以下)証人山口学、原審公判(統公二三冊三〇九丁以下)及び当審(控証四冊三丁以下)証人柳田藤雄、原審公判証人真野正太郎(統公二二冊二三九丁以下)、同磯目順孝(統公二二冊七九丁以下)、同安斎美芳(統公二一冊三八四丁以下)、同谷春松(統公二一冊四四七丁以下)、同橋本五作(統公二二冊三七一丁以下、二三冊一一丁以下)、同村松友枝(統公二三冊九二丁以下)の各証言は、例えば橋本、村松両証人が玄関ドアの硝子を割つたのが堀川浩吉でなく利川鎮吾と思違いしていること等多少の記憶違いがあるにしても、その大綱はこれを措信するに足るのであつて、伊達重春に傷害を与えた真野正太郎証人の証言(統公二二冊二八四丁、二八七丁、二八九丁)によれば、金田警部補が引張り出された後に伊達重春が負傷したものであることが明瞭である。当時玄関内左側受付台の所で見ていた福島民友記者小泉辰雄の原審公判証言(統公二三冊四七四丁、四七六丁)に徴しても、金田警部補は労働者と押問答をしているうちに引きずり出されたもので、その前に労働者が警察官に殴られたのは見なかつたというのである。警察官が伊達重春を警棒で殴つたのは、群衆が警察官を引張り出した趣旨の供述をしているのは、原判決の挙げている被告人大竹保司(統証五冊二二〇丁以下)、同樋渡一郎(統証四冊三四丁以下)の各検察官に対する供述調書だけであるが、大竹の供述は同人の脇にいた被告人佐久間信也の検察官に対する供述調書(統証三冊一五九丁以下)に照し措信し難いし、樋渡の供述は「先頭の方の右にいた伊達がやられたと叫んだので、玄関口につめかけた自分達は一時石段下まで後退した、そしたら一人の警官が同志に引張られてきた」というのであるが、前記各証拠に照し措信し難い。結局金田警部補が引張り出されたのは、前記の如く数十名の群衆が強いて署内に押入ろうとしたのを、警察官の警棒で押しつけられたりしたので、三、四十分ほど前内郷町署で暴行してきた余勢もあつて、憤慨して、やつてしまえという気になり(原審公判証人金田功の証言((統公二二冊二五丁))によれば、いきなり「やつてしまえ」と叫んで、その中の二、三人が髪を掴んで引きずり出したというのである)、いきなり同警部補の頭髪を掴んで引張り出したものと認めるのが相当である。そして、金田警部補を救出するため署員が次々にとび出してくる玄関口や署員の顔を出す窓等を目がけて投石しはじめたものとみるのが相当である。
原判決は、本田署長が署前に立出て群衆を制止した際、警察官の中に拳銃を擬していた者があつた旨の本田署長の原審公判証言及び原審公判証人山崎旻の言を挙げて、当時玄関口におつた警察官中群衆に対し拳銃を擬する者があつたと認定し、投石をはじめた主な理由としている。しかし、本田署長の原審公判における右証言というのは、本田署長が被告人鈴木磐夫から「私があなたに対して話すも話さないもあるものか、あなたの後を見ろ、後の警察官がわれわれに銃口を向けているではないか、先ずその銃口を引込めてから話そうというようなことを言つたのではないか」と質問され、これに対し同署長が「何しろ自分は、署員が怪我をしてしまつて困つた、大変なことになつたと驚いていたので、詳細な記憶はないが、あなたからそういう風に発問されると思当るような気がする。ああそうだ、あの瞬間自分は銃口を向けたらもつと大きくなるのではないかというような咄嗟な判断で、引込ませろと言つたのか、或は撃つなと言つたのか判然しないが、そのようなことを言つたように思う」旨(統公四五冊四一丁)の供述をしているだけであるが、当審証人本田正治の証言(控証三冊六一丁裏、六二丁)によれば、同人が拳銃を擬している署員を目撃したわけではなく、拳銃を持出されると却つて問題が大きくなると思い、とつさに鈴木磐夫の言葉に応じて、拳銃を出すなと言つたものであることが認められ、原審公判(統公三二冊七〇二丁以下)及び当審(控証五冊四三丁以下、四九丁裏以下)証人伊藤徳雄、原審公判(統公二三冊三七〇丁以下)及び当審(控証四冊一一二丁以下)証人柳田藤雄、当審証人(控証五冊一五三丁裏以下)梅田五月の各証言によれば、当日留置場以外の署内で拳銃を所持した署員は梅田巡査部長だけであるが、同巡査部長がこれを携帯して署前に立出た事実は認め得ないのである。原判決の挙げているアカハタ記者である原審公判証人山崎晃の証言(統公三六冊二一四丁、二三二丁)は「玄関の中程で空気銃らしい猟銃を持つて威嚇していた警官もあり、二階からは棍棒を出したりカメラとか銃口を差向けていた。銃口は拳銃だかどうだか二階なのではつきりいうことはできないが、後の方で鉄砲だというのを聞いた。それは伊達が殴られたあとの状態で、拳銃かどうかはつきり認められない」というのであり、なお同証言中には警察側の負傷につき右乱闘で自ら滑つて転んで怪我した二人位の警官があつた旨(同上二二三丁)供述しているほどであつて、右証言は遽かに信用できない。真実拳銃を擬した署員があつたとすれば、これを目撃した被告人等が相当数いる筈と思われるが、被告人で拳銃を向けた署員があつた旨供述しているのは、鈴木磐夫の検察官に対する供述調書(統証六冊四九五丁以下)と八代一郎の手記(分証一九冊九五丁以下)だけであり、鈴木磐夫と共に先頭に居た日野定利は前叙の如く拳銃を擬した署員のあつたことは何等述べていないことに照しても、右はたやすく措信採用できない。なお、雑誌「福島警友」に伊藤次席が拳銃を撃てと言つた旨の記事の掲載があるとしても、原審公判(統公三二冊七〇二丁以下、七〇四丁以下)及び当審(控証五冊五〇丁裏以下)証人伊藤徳雄の証言に徴すれば、伊藤は右記事の筆者から何等聞かれたことはなく、それは記事の間違いであつて、伊藤がかく言つた事実もなければ、拳銃を擬する署員を目撃した事実もないことが認められる。
叙上の次第で、前記各証拠を総合すれば、先着の群衆約四、五十名が市署玄関前に円陣を作つて、赤旗を振りスクラムを組み労働歌を合唱して気勢をあげ、そのうち日野定利等七、八名の者が玄関口に押しかけ、ドアの内側にいる部下約一〇名と共に玄関口を警備していて、玄関に出た金田警部補に対し「署長に会わせろ」と要求し、同警部補が「交渉があるなら代表三名にしてくれ」と制止し、「そんな馬鹿なことがあるか、何人でも通せ」と大声をあげて押問答しているうち、間もなく平駅方面からトラツクに押乗つた同じく内郷町署に押しかけた群衆中男女約四、五十名が同署前に到着してとび下り、先着の一団と合流し総勢約一〇〇名となるや、いきなりそのうち二、三十名の者はワアツと喚声をあげて同署玄関口に殺到し、入れろ入れろと多数をたのんで強いて署内に押入ろうとしたため、両手をあげて制止しようとする同警部補の側背後にあつてこれを阻止しようとする署員との間に押合いとなり、群衆中には棒でかかる者もあり、警察官も警棒で押しつけたりしたので、群衆中の二、三人は「やつてしまえ」と叫び、相手を刺戟しないよう無帽無装備にしていた同警部補の頭髪を掴んで玄関前道路に引張り出して押倒し棒で殴つたり、蹴つたりするなどの暴行を加え、同警部補を助け出すため部下の署員が次々にとび出したが、金田警部補が引張り出された直後に、玄関西側ドアを制止もきかず強いて開けようとした群衆の一人伊達重春を阻止すべく、その肩を叩こうとした警棒が誤つてその前頭部に当り出血をみたので、群衆はますますいきり立ち、次々にとび出してくる署員を取囲んで棒、洋傘等で殴打し、蹴り、その頃群衆の一人利川鎮吾が赤旗を持つて署内に侵入して逮捕され、また群衆中二、三十名の者は警察官のとび出してくる玄関口その他に盛に投石しはじめ、ワツシヨワツシヨの気勢の声、硝子の割れる音、物の毀れる音、喚声怒号等の入りまじる乱闘が五、六分間続いたが、本田署長等が投石をおかして客溜に出たところ、署長に石が当つて帽子を飛ばされ、一時ひるんで退いたが、更に腕で顔を掩うようにして玄関口に立出で、危機を収拾するため、「乱暴をやめよ、話せばわかる、代表三名と話す」と叫びかけて制止し、群衆中日野定利が「静かにしろ、これから代表を出して話合うから静かにしろ」と手を振り、群衆の騒ぎは一応おさまつて、署長は倒れている部下等を助けて署内に入つた事実を認め得るのである。そして、右約一〇〇名の群衆の大多数に共同暴行等の意思の成立存在したことを認め得ることは前段説明のとおりである。
なお、右の経緯であるから、平市署のとつた措置に対し、いわゆる大衆抗議をすること自体は何等違法ではないとしても、その手段は代表をあげて平穏裡に折衝する等、社会通念上是認さるべき平和的秩序ある方法に限らるべきであり、本件の如く代表者だけ入るようとの警察側の制止を排して、多衆の力を以て署内に押入ろうとするが如きは固より許容されないところで、警察側がこの不法侵入を阻止すべく、警棒を構えて押返すことはその職務行為に属し、群衆中棒をもつてかかる者も出てきたので、これを防ぐため警棒を揮つたとしても、当時の具体的事情に照し全般的にみて違法ではなく、警察側の態度には急迫不正の侵害行為はもちろん挑発刺戟的行為ありとは認められない。尤も、群衆の一人の頭部に誤つて警棒が当つて出血をみたので群衆がますますいきり立ち、その暴力性を助長したことは窺われるが、右警察官の所為は行き過ぎの点がなくはないとしても、その行為は既に瞬時にして止んでおり、その他警察側は金田警部補等の救出のためにとび出して行き、群衆に対し積極的攻撃的所為には出ていないのである。群衆側は血を見たのでますます憤慨して次々に警察官に棒等で暴行傷害を加え、投石するに至つたものであつて、防衛行為とは認め難いし、やむを得ざるに出でた行為とも認められないのであり、群衆の所為に弁護人の主張する如き正当防衛の観念を容れる余地は存しない。
三 論旨は、平市署内に群衆が立入つたのは、代表と称する五名が侵入した後、逐次午後五時頃までの間に降雨の如何に拘らず、既に平署の意思を無視して署長室、両事務室、客溜等の署内に計百数十名の者が侵入したもので、署員は群衆に制圧されて群衆が自由に同署内に出入し得る不法状況を現出しており、署長が代表者から入署許可の交渉を受けた事実はないと共に、かかる爾後に入署許可の交渉をなすというようなことは無意義であり、又降雨が強くなつた後立入つた群衆も、既にそれまで署前にあつて署内の群衆と呼応し、同署内外一団となつて同署を制圧していたのであるから、仮令雨宿りの意思があつたとしても、その署内立入りが適法化される理由なく、しかも狭隘な署内に四、五百名に上る巨大な群衆がその要求貫徹のため押入つて署員を制圧した上、労働歌を怒号し、棍棒で床を突き床を蹴り、署員を小突き廻す等して、長時間署内に滞留したのであるから、かかる滞留自体が建物に対する暴行で、それは群衆の共同意思に出たものであることは明らかであり、玄関前柱に大赤旗二本を交又掲揚し、市内要所に主として応援警察官に対処するため警備隊を配置したことは、集団による不法占拠の意図を示すものである旨主張する。
原判決は、同署内に群衆が立入つたのは、午後五時半頃雨のため署長の許可が出たから入れと指示する者のあつたことが原因で一斉に立入つたもので、一概に責められない状況があり、これを以て不法に同署を占拠し或は暴行脅迫等の所為をなす意図があつたものと認めることは困難で、当初は署内に入り雨を避けながら交渉を待つ以外に他意はなかつたものと認めるのが相当であり、又、群衆が署内に立入つた後署内に滞留し、その間或は激励演説や中間報告をなし、或は赤旗を振り労働歌を歌う等喧騒に亘る行為をなして、署長室の交渉を支援する態度に出たことを以て同署を不法に占拠する意図は暴行意思の現れとみるべき不退去の行為があつたものとみることは困難であると共に、玄関前の柱に赤旗二本を交又して掲げ、また見張りのため警備員を配置して署内に立入る者や通行人を誰何している状況を外観的にみれば、恰も群衆が同署を不法に占拠しているかのような観を呈しているが、前者は群衆の意図に基いてなされたことを認めるに足る証左なく、後者は専ら内郷の暴力団に対する自衛の措置で、これらを以て群衆がかかる占拠の意思を有していたものとは認められない旨判断している。
そこで、記録を精査し当審における事実取調の結果に徴するに、同署内にいわゆる代表者、連絡員以外の群衆が立入つたのは、午後四時頃からで、連絡員と称して逐次侵入しはじめ、午後四時半頃には幹部のうち、「われわれの税金で建てた警察だ、構わないから皆入れ」という者があつて、相当数の群衆が侵入し、午後五時前後までには、署長室に二、三十名、警備、経済両事務室に計四、五十名、客溜に、二三十名が侵入し、両事務室や客溜の群衆は赤旗を持込み、労働歌を合唱する等騒然としており、署員は呆然としてなすところを知らず、午後五時半頃署外に残つている群衆中から幹部に対し「雨が降つているからわれわれも入れろ」という声があつて、幹部は署長の許可した事実がないのに署長が黙認したものとして許可が出たから入れと伝えて更に多数の群衆が侵入し、その頃から署内の群衆は遽かに喧騒を極め、赤旗を振り労働歌を怒号し、棒で床を突き足で床を蹴り、署員を小突き廻す等して、いわゆる交渉支援の態度に出で、その頃幹部により警察を占領したとして署玄関柱に大赤旗二本が交叉掲揚され、「人民警察ができた」と叫ぶ者があり、これを見て玄関前にスクラムを組んだ一団や客溜の群衆の大多数は「これで、はじめてわれわれの警察ができた」と言合い、中間報告や激励演説があると、これを聞いた群衆は拍手喝采する状況で、午後六時過頃には署内の群衆は二、三百名となり、警察機能が果せないので国警県本部に応援警察官の派遣方を要請し、その頃内郷から暴力団が来襲すると伝えたものがあつて、幹部の指揮により主としてこれに備えるため、市内各要所に数十名の見張り警備隊が配置され、その後暴力団が来ないことが判り、夜になつてからは殆んど専ら応援警察官に対処するため警備隊配置が続けられ、署内の群衆は更に増減して午後一一時半頃まで右の状況で署内に滞留したものである。右の有様で、幹部から署長が許可したから入れと言われて立入つた群衆も、その大多数は真に許可が出たものと信じたかは疑わしく、多衆の不法な威力を恃んでの交渉を支援する意思で立入つたもので、その立入りの前後における署内の右交渉支援のためにする喧騒状況等からみて斯く信じたとはみられないのであつて、雨宿りの意思もあつたことはその不法性に消長をきたさない。そして、このような署内に侵入した群衆が、最初から同署を不法に占拠する意図があつたとは認め難いが、少くとも大赤旗を交叉掲揚した時から幹部中にこれを不法占拠する意思があり、他の群衆の大多数はこれに同調し又は不法占拠の状態にあることを認識しながらこれを認容していたものであることが肯認し得られるのであり、不法占拠が建物に対する暴行であることはいうまでもない。以下具体的に証拠に基いて説明する。
1 署前の群衆は衝突直前も何人でも通せと叫び、乱闘直後も全部代表だから皆入れろと叫んだこと(当審証人金田功((控証三冊一九七丁裏))、同本田正治((控証三冊五七丁裏))の各証言)、午後四時過頃二〇名位スクラムを組んで中に入れろと玄関に押しかけて騒ぎ、朝鮮人の或る者は奥に入つて暴れようと言つており、前面の数名が玄関口客溜になお警備していた警察官数名と押問答し、署内から幹部の朝鮮人と日本人が出て来て、皆が中に入ると交渉がうまくなくなるから入るなと押しかえしたこと(勤労タイムス記者小林清の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一七二丁))、被告人星野一二((統証三冊二二八丁以下))、同宍戸弘((統証五冊五丁以下))の各検察官に対する供述調書)は既に説明したところである。そして、被告人上津源三(統証四冊二六二丁)、同董時活(統証三冊四九三丁)、同武藤弘(統証六冊二九一丁)の各検察官に対する供述調書、及び当審証人梅田五月の証言(控証五冊一五六丁)によれば、既に右午後四時前後からいわゆる代表者、連絡員以外に連絡員等と称して逐次三々五々署内に侵入する群衆が次第に増して行つたことが認められる。
2 ところで、福島民報記者である鈴木亀吉は当時毎日湯本町からバスで平市の同新聞支社に通勤していたもので、当日は本件事件に際会し、午後五時から五時半までの間のバスで帰るため、午後五時少し前に平市署を立出て近くの同支社に寄つて本社に連絡の上バスで帰宅したものであるから、午後五時頃までの市署内外における群衆の状況を、五時頃以降の群衆の状況と混同することなく、その供述は信用するに足るものと考えられる。同人が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊八五丁、八六丁裏)及び同人の原審公判証言(統公三一冊一六八丁以下)によれば、「署前の乱闘がやんで鈴木光雄(鈴木磐夫の誤りと認められる)等が警察に抗議すると言つて署内に入つてから一旦支社(市署から歩いて数分)に帰り間もなく市署に引返したが、それは鈴木光雄等が抗議するというのを聞いてから二、三十分位過ぎた頃で午後四時頃と思われ、署長室では朴重根が折れた警棒を見せて『折れるほど殴つて何言うんだ』と責めており、署前の群衆は盛に労働歌を合唱し、その数も増して行つた。間もなく午後四時過頃自分外二、三名の新聞記者が、署長室の隣の伊藤次席の部屋(警備事務室)にいると、ワアツと喚声をあげて群衆が署内になだれを打つて入ろうとし、警官の制止をきかず、受付台のある通路(客溜)に溢れる程一杯になり、赤旗を振り労働歌を高唱し、朴重根外二、三の者が受付台に上つてアジ演説をし、自分はこの状況を見て身の危険を感じ、次席の部屋を出て退避し、この状況を写真に撮つた。群衆は二、三十分後幹部の指示があつたかどうか判らないが、急に署外に出てスクラムを組み労働歌を高唱し、又何時の間にか中に入つてくるということを二回位繰返した。左右の部屋に五、六十名位の群衆が入つてワイワイ騒いだり、歌つたりし、幹部の誰かが群衆を客溜まで出したことがあつたように思う」というのである。幹部である被告人日野定利も検察官に対する供述調書(統証三冊一四九丁)で、「その頃署長から代表以外を出して貰いたいと言われ、自分がその時代表以外の者には署長室から出て貰つた」旨認めているのであり、これに照応する原審公判証人本田正治(統公三二冊八二丁裏)、同根本鬼一(統公二四冊二九二丁)の証言が存するのである。幹部である被告人熊田豊次も検察官に対する供述調書(統証二冊三二八丁表裏)で、「署長に続いて代表者が署長室に入つて席についたのは午後三時四五分頃で、四時半頃鈴木光雄、金明福等地区委の代表者が来たが、その頃は外に居た労働者、報道班員、写真班員が大分署内に入込み、この頃警察の方は玄関で署に入るのを制止していたようだが、警察としての機能を失いかけていた。交渉の経過は掲示板の代替の場所が見付かつたが借用は正式に決定されていないので時間的に限定されては困るなど色々話合つた結果、土地借用が決つてから三日間に移すということでその問題は五時半か六時頃落着した。この掲示板問題が落着した頃には警察としての機能を失つていた。引続いてこの事態の責任、慰藉料の二要求を提出し、署長では解らないので公安委員を呼ぶことになつた」と述べている。右同被告人の供述のうち鈴木光雄が市署に馳付けた時刻及び掲示板問題が落着した時刻は、当日磐越東線午後五時二九分平駅着で福島から帰署した平市署員である原審公判証人鈴木忠正の証言(統公二三冊二六七丁表、二六八丁、二七六丁表裏)に照し間違いないとみられる原審公判証人本田正治(統公三冊八四丁、一二四丁、統公三二冊六五丁、三〇二丁)、同伊藤徳雄(統公六冊六八丁)の各証言に徴し、誤りであつて、鈴木光雄が市署に馳付けたのは午後四時一寸過頃で、掲示板問題が落着したのは午後五時頃であるが、午後四時過頃から群衆が相当数入りはじめ、掲示板問題の落着した午後五時頃には可成り多数の群衆が侵入して騒然とし、署員は何等なすところなく片隅に追いやられて呆然としており、群衆は自由に署内に出入し得る状況にあつたことを窺うに十分である。福島民友記者である小泉辰雄(分証一冊七五丁)、読売記者である桑島茂光(分証一冊五八丁裏)がいずれも事件後一個月ほどして証言した同証人に対する各裁判官尋問調書謄本及び朝日記者である斎藤敏雄の原審公判証言(統公二一冊二四二丁乃至二四八丁裏)に徴しても、午後五時以前に多数の群衆が署内に侵入したことが認められるのであつて、右小泉辰雄の証言によれば、「午後四時半頃と思われる時群衆中約四、五十名が玄関口より受付台のある通路(客溜)に入つてきて、内外で労働歌を合唱しており、警察官は事務室に居らなかつたようで、間もなく呉羽から応援が来たと群衆の一人が話すと、署内の群衆は歓迎する意味か署外に出て赤旗を振りながら労働歌を歌い、約三〇分して午後五時頃ゾロゾロと署内に入り、事務室も一杯になり、廊下にも入つた」というのである。
幹部である被告人榊原光治(逃亡中)の検察官に対する供述調書(統証五冊二〇三丁)によれば、「地区委事務所に居て伝令で知り、自分一人で馳付けたのが午後四時半頃で、署内に入つたのは五時頃であるが、警察官でない者が入口辺で『雨が降つて大衆が外で濡れているのに、警官だけが中に居て濡れていない、警察はわれわれの建てた物だ、皆入れ』と言つたので、大衆が中に入り、自分もはじめて入つた。はじめ通路に居ただけだが、警官に対し『邪魔だから退いてろ』といつて警官を事務室へあげてやつた。それから受付台へ上つて労働歌の音頭をとつた」と述べている。これに対し、平市署員である原審公判証人新妻二郎の証言(統公二四冊二〇九丁乃至二一三丁)によれば「自分が客溜にいると、(その頃玄関入口附近に署員が五、六人か七、八人居た)、次席が出て来て『中に入れないように』と言つて引返し、その頃雨が降つていたが、暫くして署長室から金明福が現われ、入口扉の辺から、『警官は署内に居るのに労働者は外で雨に濡れている。警察はわれわれの税金で建てた物だから、こんな馬鹿な話はない、皆構わないから中へ入れ』と言つた。その時は入らなかつたが金明福が再び出て来て警備事務室の受付台から身体を乗出し、『入れ、入れ』と言つたので、労働者は署内に入つてきた。それは午後四時過頃だつたと思う。自分はジリジリ退つて経済事務室に入つたが、何分大勢で入るなと言つても仕方のない状況で言わなかつた。群衆は客溜に一杯になり、一部の者は経済事務室にも入つて来た。坂本津奈子が経済事務室に入つてきて、『警察は血も涙もない奴ばかりだ、警察だつてわれわれの税金で建てたし、その服だつてそれで作つたのだ、その服脱がしてしまえ』とか、『矢郷の誰とかが死んだのはお前達が殺したのだ』と言つていた。そのうち署内の労働者から『同志が外で濡れているのにわれわれだけ濡れないでいるのは悪い』という声が起り、殆んど署外に出たが、その後一〇分か一五分経つて又入つて来た。それは午後四時半頃から五時頃の間のことであつた。特に入れという者はなかつたが、思い思いに入つて来たようである。前よりも多勢が入つて来て客溜、経済事務室のほか、警備事務室や署長室へも入つて行つた。その数は一〇〇人か一五〇人位と思う。それで自分が警備事務室へ入つて行くと、榊原光治が『向うへ行つていろ』と廊下の方を指さし、二、三回『出ろ』といわれたので、やむを得ず廊下に出た。附近には多勢の労働者がが入つていて自分の方を見ており、強い言葉で『出ろ』といわれたので、そのまま居るわけにはいかなかつた」と供述しているのであつて、両者の供述は全く符合しているのであり、右新妻証人の証言は措信するに足るのである。被告人引地正の検察官に対する供述調書謄本(分証四冊四七四丁、四八五丁)でも「午後四時過頃玄関口で半島人らしい者が中に入れと号令すると、群衆が一斉にワアツと押入つたので、自分も入つたが、それまで玄関口に居た警官は後退を余儀なくされ、その時入つたのは署前の群衆百三、四十人のうち半分位である」旨述べており、被告人松木ハルヨ(統証四冊三二六丁以下)、同佐藤一(統証四冊一一二丁裏)の各検察官に対する供述調書でも、同趣旨のことを供述しているのである。
以上に照し、平市署員で篠谷清重(分証四冊四六一丁以下)、同村松友枝(分証一冊三〇一丁以下)、同渡辺仲吉(分証一六冊一二八丁以下)の各検察官に対する供述調書謄本における「午後四時頃から五時頃までの間に金明福が玄関口に出て群衆に向い『われわれの作つた建物だから中に入れ』と二、三回号令すると、群衆がドツと署内に押入つた」旨の供述及び原審公判証人篠谷清重(統公二三冊一四一丁以下)、同村松友枝(統公二三冊七二丁以下)、同渡辺仲吉(統公二二冊三二五丁以下)、同橋本宗秀(統公二三冊二四五丁以下)、同根本鬼一(統公二四冊二八九丁以下)、原審公判(統公二三冊三〇九丁以下)及び当審(控証四冊三丁以下)証人柳田藤雄、原審公判(統公二二冊一七二丁以下)取び当審(控証三冊二二四丁以下)証人車田喜雄、原審公判(統公三冊六九丁以下、統公三二冊二四丁以下)及び当審(控証三冊三丁以下)証人本田正治、原審公判(統公六冊一九丁以下、統公三二冊五〇五丁以下)及び当審(控証五冊三丁以下)証人伊藤徳雄の各証言の大綱はこれを措信し得るのである。しかも、金明福はこれらの証人に対しこの点につき敢て反対尋問せず、原審公判証人橋本宗秀(統公二三冊二五三丁以下、二六三丁以下、二六五丁)が、午後四時頃労働者が客溜に入つていた旨及び午後四時半頃金明福が労働者に向つてわれわれの同志だから入れ入れというと、群衆が入つてきた旨証言したのに対し、労働者が客溜に入つたのは午後四時半頃ではなかつたかと反問しているほどである。
叙上挙示した諸証拠を綜合すれば、午後四時頃から連絡員と称して署内に侵入する群衆が次第に増してゆくうち、午後四時半頃金明福が玄関口に現われ、「労働者は外で雨に濡れている、警察はわれわれの税金で建てたものだ、皆構わないから中に入れ」というと、群衆はドヤドヤと数十名署内客溜に侵入し、一部は経済事務室にも入込み、署員は呆然としてなすところなく奥に追いやられ、その後一旦大部分が署外に出たが、間もなく午後五時近くには前より多数侵入し、署長室にも二、三十名、警備、経済両事務室に計四、五十名入込み、両事務室の者や客溜の二、三十名は赤旗を持込み、労働歌を高唱したりして騒然としており、幹部や連絡員が交渉経過の報告や激励演説などし、その頃本田署長は署長室から代表以外の者を出してくれるよう幹部に要求したことが認められるのである。弁護人は検察官提出の証第一八号の三二葉以下の写真に、午後七時半以前撮影のものと認められる写真が一葉も存在しない事を以て反論するけれども、これを以ては前顕諸証拠に照し右認定事実を否定することはできない。
因みに、かかるうちに前段(その五の一の3参照)説明の如く或は棒をもつて床を突く者があり、或はやつてしまえ等と叫ぶ者がある等の署長室の状況下で、午後五時頃掲示板問題は地区委が雨天の日を除いて三日の間に移転するということで妥結して、署長以下ホツとしたところ(原審公判((統公六冊六九丁))及び当審((控証五冊六一丁))証人伊藤徳雄、当審証人本田正治((控証三冊七〇丁))の各証言)、鈴木光雄は引続いて(原審公判((統公三冊九〇丁、統公三二冊六八丁裏))及び当審((控証三冊七〇丁))証人本田正治の証言)当日の責任による署長の辞職、群衆の怪我人に対する治療費、矢郷争議で従業員山本某の死亡したことに対する慰藉料等の要求項目を掲げて、本田署長に迫り、同署長がこれを拒否して署長の任免権は公安委員会にある旨述べると、鈴木光雄は(原審公判証人伊藤徳雄((統公六冊七一丁裏))の証言)然らば今から公安委員会を開けと要求するに至つたのが、午後五時半近い頃である。
3 被告人舟木寛一の検察官に対する供述調書(統証四冊四五二丁)によれば、「午後五時半頃と思うが、村上俊雄或は朴重根かも知れないが、『大衆を雨の中に立たせておくのは不当だから、中に入れるよう交渉する』と玄関の高い所で演説し、四、五名が中に入つて行き、一〇分ばかりで村上が引返し『何卒入つて下さい』というので、先頭の女五〇人位、それに続いて矢郷の男の連中が入り、溢れる位になつた」というのであり(証人清野常雄に対する裁判官尋問調書((統証五冊一七二丁裏))に徴しても、五時半頃女を先頭に入つた旨述べている)、被告人舟山義秋の検察官に対する供述調書(統証二冊二一一丁)によれば、午後五時半頃と思うが、先の朝鮮人(朴)が玄関に出て『交渉の結果入つてもよい許可を貰つたから入れ』というので、皆ガヤガヤ入つたので、自分も許可を確めず入つたが、入つた客溜の人達は表の労働者と同様歌つて気勢をあげた」というのであり、被告人佐藤多美夫(統証三冊三九丁以下)、同阿部浩三(統証二冊二六丁以下)、同遠藤弘(統証二冊二六八丁以下)、同渡辺安己(統証二冊一八一丁以下)の各検察官に対する供述調書によると、警察の許可が出たという話があつて皆で入つたというのである。代表として署長に対し大衆の入署交渉をしたという被告人鈴木光雄の検察官に対する供述調書(統証四冊四三五丁以下)によれば、「掲示板問題は午後七時頃一応解決したが、その交渉中午後六時半頃外部の労働者の代表らしい者が、外に沢山労働者が雨に濡れて交渉を待つているから署内に入れてくれるよう署長に交渉を頼むということであつたから、自分は署長に交渉したが、署長は別に悪いとも返事しないので、更に二、三回念を押したが別に悪いという返事がないので、中に入つて静かに待つておれと伝えた結果、署附近に待機していた労働者が署内に入つたもので、雨を避けるためであり、署内に入つた労働者は余り騒いだことなく、赤旗を持つた者もない」というのである(掲示板問題落着の時刻は前叙説明のとおり午後五時頃である)。これに対し、その署長である原審公判証人本正田治や、その傍にいた平地区署長の原審公判証人橋本岩夫はそのような交渉を受けた事実は一度もないと証言しているばかりでなく、前叙説明の如く被告人日野定利自身も認めているように、本田署長は既に署内に侵入した群衆が喧騒するため代表以外は署長室から出るよう幹部に要求しているほどである。弁護人は同署次席である原審公判証人伊藤徳雄はその交渉のあつた事実を肯定している旨主張するけれども、その伊藤徳雄の原審公判証言(統公三二冊五九七丁)によれば、「署内に入つている人達に代表以外は出てくれと言つた時、『馬鹿野郎、雨が降つているのに出られるか、中に入れてくれ』と言われたことはあるが、それは署長室に入つている者と署長室の窓の外で交渉を見ている群衆からと二回あつたもので、代表者から話があつたのではない」というのである。弁護人の挙げる勤労タイムス記者小林清の原審公判における「署長が騒がないで静かにしろというような言葉で許可した」旨の証言(統公一九冊四七丁)は、同人が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊一七一丁以下)に徴し措信できないばかりでなく、鈴木光雄自身が前記の如く署長は別に返事しなかつたというのであるから、前記証言は信用できない。(アカハタ記者清野常雄((統公三五冊二九三丁以下))、同山崎晃((統公三六冊二六〇丁以下))、解放新聞記者皇甫賢((統公三六冊二三八丁以下))の各原審公判証言等も同様信用できない)。右の次第で、代表が署長に対し真の意味において群衆の入署許可の交渉をしたかは疑わしいのであつて、前叙の如く既に多数の群衆が侵入しているのであるから入署許可の交渉ということは無意味であり、まして署長が群衆の入署を許可した事実は到底認められないのである。原判決は当時新聞記者間に署内に入ることについて署長の許可があつたという話が伝えられたとし、原審公判証人三谷晃一、同大塚正勝の証言を挙げているけれども、同人等に対する裁判官の各証人尋問調書謄本(分証一冊六五丁以下、一〇三丁以下)ではその点述べておらないし、原審公判証人である朝日記者斎藤敏雄(統公二一冊二四八丁)、福島民友記者小泉辰雄(統公二三冊四六一丁)は、そのような話は全然聞いていないというのである。
以上を綜合すれば、午後五時前後頃から五時半近い頃までの間に、署外に残つている群衆から幹部に対し「雨が降つているからわれわれも中に入れろ」という声があり、鈴木光雄は署長の許可した事実がないのに、署長が黙認したものとして許可があつたから入つてよい旨連絡員に伝えたので、朴重根等が連絡すると、署前に残つていた群衆中約一〇〇名は女を先頭に一斉に署内に立入つたものであることが認められる。原判決は、午後五時半頃雨のため署長の許可が出たというので群衆が一斉に署内に立入るまでの約二時間の間は、同署玄関口には七、八名の署員が引続き警備しており、署前の群衆中には署員の制止を排除して署内に入ろうとする者はなかつた旨認定しているけれども、既に前叙説明のとおり午後五時頃までに約一〇〇名の群衆が侵入しているばかりでなく、金内直(統証一冊九丁以下)、被告人佐川市右衛門(統証三冊三一二丁以下)、同篠田陽(統証四冊二二一丁以下)、同深沢信(統証三冊一九二丁以下)、同徐万甲(統証六冊四丁以下)、同平川一郎(統証五冊八五丁以下)、同武藤弘(統証六冊二九一丁以下)、同小林好幸(統証三冊二五一丁以下)の各検察官に対する供述調書に徴しても、雨のため許可が出たから入れという話のある前に既に署内に多数の群衆の入つていたことが明らかである。然らば、既に多数の群衆が署内に入つており、自由に署内に出入し得る状況にあつたのであるから、雨が降つているからわれわれも中に入れろという声があつて幹部から署長の許可があつたから入れと伝えたのは無意味のようであるが、これまで説明した証拠からも窺われるように、午後五時頃までに署内に侵入した群衆の大多数は積極分子ないし有力分子であつて、署外に残つていた群衆の大多数は比較的そうでない分子と婦女子(女でも坂本津奈子の如き積極分子は先に入つている)であり、雨が降つているからわれわれも入れろというのは後者の分子から幹部に対する叫びであつて、幹部も署長の許可があつたものとして入署させたものとみるのが相当である。朴重根が本田署長の退去要求に対し、「出す出さないは俺達の方で指揮する、署長の知つたことではない」と放言していること(原審公判証人本田正治((統公三冊一〇八丁、統公三二冊八三丁))の証言)は、組織大衆におけるこの間の消息を物語つているものといえる。かくて、署長の許可が出たからといわれて一斉に立入つたのは前記の如く婦女子約五〇名と矢郷の労働者なのである。
4 午後五時頃までに侵入した群衆約一〇〇名が署内で喧騒していたことは前叙説明のとおりであるが、午後五時半頃には約一〇〇余名が一斉に署内に立入つた直後の状況は、原審公判証人伊藤徳雄の証言(統公六冊七一丁)によれば、その頃から署内に入つた群衆が遽かに騒々しくなり、棒で床を突鳴らす者、労働歌を合唱する者、署長にやめろと叫ぶ者等があつて喧騒を極め、被告人金明福(統証四冊一九七丁以下)、同直井稔(統証四冊二四二丁以下)、同国井光政(統証三冊四五〇丁以下)、同徐万甲(統証六冊五丁以下)、同金竜洙(統証五冊一八〇丁以下)の各検察官に対する供述調書に徴しても署内に警官の姿は見えないようで、署長室にも一杯でワアワアしており、そこに入れない連中は廊下や事務室で労働歌を歌つて気勢をあげ、或は机の上に土足で上つている者も数人あり、廊下まで一杯溢れてワアワア怒鳴りながら騒ぎ、或は大勢の者が棒や竹などを持ち、更には棒で床を突鳴らすなどして労働歌を怒鳴つていた状況であることが認められる。朝日記者である斎藤敏雄(分証一冊四八丁、四九丁)、読売記者である桑島茂光(分証一冊五九丁)、福島民報記者である三谷晃一(分証一冊六六丁裏)が各事件後一個月ほどして証言した同証人等に対する各裁判官尋問調書謄本によつても、侵入した群衆に対し指揮者らしい二、三人が受付台に上つて赤旗を振つて大いに気勢をあげ、群衆は非常に騒ぎ立て、朴重根等が受付台に上つてアジ演説し、署内は全く群衆のなすがままに放任された状況であつたことが認められ、布団業の原審公判証人大河原孝貞丸の証言(統公二〇冊二七二丁)によれば、玄関は労働者で一杯で棒や竹槍のようなものを持つて受付台に上り「赤旗を守れ」と騒いでおり、四角棒に釘を打付けたものを持つている者もあつたことが認められる。そして、後述する如く、その頃幹部により署玄関柱に大赤旗二本が交叉掲揚され、これを見た群衆は「これではじめてわれわれの警察ができた」と言合い、警察の機能は果せず、午後六時頃国警県本部に応援警察官の派遣方を要請し、その頃内郷町の暴力団が来襲すると伝えたものがあつて、幹部の指揮で棍棒や石塊を携えた数班の見張り警備隊を市内各要所に配置して検問し、暴力団が来ないことが判つても応援警察官に備えて警戒を続け、署内の前記喧騒状態と共に赤旗掲揚も検問も午後一一時半頃群衆が引揚げるまで続けられたのである。
以上の状況に鑑みれば、幹部から署長の許可した事実がないのに署長が許可したから入れと言われて署内に入つた群衆も、その大多数は真に許可が出たものと信じたかは疑わしく、多衆の不法な威力を恃んでの交渉を支援する意思で立入つたもので、その立入りの前後における署内の右交渉支援のためにする喧騒状況等からみて、斯く信じて入つたものとは到底認められないのである。そして、その群衆に雨宿りの意思もあつたことは、右の事情であるばかりでなく、立入る前既に署内の群衆と相呼応していたのであつて、その立入りの不法性に何等消長をきたすものではない。
5 平市署員である鈴木忠正は当日磐越東線午後五時二九分平駅着で福島から帰署した者で、その時刻関係を信用してよいものと考えられるが、同人の原審公判証言(統公二三冊二六七丁表、二六八丁、二七六丁表)によれば、同人が右汽車で平駅に着き市署まで五、六分で来られるが、駅員の話をききすぐ急いで市署玄関まで来ると、玄関入口の柱に密着して赤旗が交叉して立てられてあつたことが認められ、被告人石井勝男の検察官に対する供述調書(統証五冊二一四丁裏、二一七丁裏、二一八丁表)に徴すれば、同人は綴駅(現在内郷駅)発午後五時一〇分(常磐線)の汽車で平駅に着き、平市署前に来たのが午後五時二〇分頃であるが(汽車の平駅着は五時一七分だから市署到着はも少しおそい筈である)、署前に来た時玄関に赤旗二本が立てられているのを見たというのである。金泰圭の検察官に対する供述調書(統証四冊五丁)によれば、同人が署玄関の柱に赤旗二本が交叉して立つているのを見た直後掻槌小路の方へ行つて松屋前のバス停留所からバスに乗つたのが大体午後五時半頃と思うというのであり、布団業の原審公判証人大河原孝丸の証言(統公二〇冊三七四丁、三七八丁、三八〇丁)によれば、午後五時頃市署へ行つた時署玄関柱に一本赤旗が立てられてあり、そのうちそれにもう一本交叉して縛り付けているのを見たが、それは未だ明るい時で、薄暗くなつた程でもなく、写真を撮るのにフラツシユをたかなかつた(当日は雨天)というのである。これらを総合すれば、市署玄関柱に大赤旗二本が交叉掲揚されたのは午後五時半頃とみて差支ない。そして高橋初治(統証二冊四三二丁)、金泰圭(統証四冊五丁、六丁)、被告人佐藤一(統証四冊一一三丁裏)、同角田保雄(統証三冊一〇八丁)、同芳賀雄太郎(統証四冊四〇四丁裏)、同篠田陽(統証四冊二二七丁)、朴申道(分証一冊二三五丁)の各検察官に対する供述調書(朴のは謄本)、原審公判証人後藤一六(統公二〇冊一五六丁)、同磯目順孝(統公二二冊九〇丁)の各証言、磯目順孝の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊三一〇丁)、及び証第二一号、第一八号中第三一葉写真に徴すれば、群衆が一斉に侵入した直後、右時刻頃群衆中池田秀一(常磐製作所細胞キヤツプ)、朴重根等四、五名の者が「われわれは警察を占領したから赤旗を立てる」と叫び、代表日野定利が玄関に出てきて、赤旗を立ててもよいというような演説をし、市署玄関の柱に大赤旗二本を交叉して、縄で結びつけ、間もなく村上俊雄、長江久雄、島幸次郎等幹部数名が右赤旗を、背景に玄関前に並んで新聞記者後藤一六の写真撮影に応じたことが認められる。被告人芳賀雄太郎(統証四冊四〇四丁裏)、同遠藤弘(統証二七〇丁以下)の各検察官に対する供述調書、土建業の証人斎藤角治に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊一七丁乃至二〇丁裏)、市議大野友春の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一五〇丁裏)、薬商である原審公判証人相沢文之助(統公二一冊一二二丁)、市署員の原審公判証人鈴木忠正(統公二三冊二六九丁)の各証言に徴すれば、その頃赤旗の掲揚された玄関口に立つて「人民警察ができた」「人民政府ができた」と叫ぶ者があり、玄関前には約二〇〇名の群衆が労働歌を高唱し、或は女を含めてスクラムを組んだ一隊があつて、交叉された赤旗を見て「これではじめてわれわれの警察ができた」という意味のことを言つて得意然としており(斎藤角治の証言)、又署二階正面の窓から同志の女二人が「われわれの占領した家だから居心地がよい、みんな入れ入れ」と叫び(大野友春の供述、相沢文之助の証言)、署内客溜の群衆は「人民警察ができた」等と言つていた(鈴木忠正の証言)ことが認められるのである。更に、写真材料商の茂木茂の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊二八〇丁以下)及び同人の原審公判証言(統公二〇冊三三七丁)によれば午後六、七時頃沢山の群衆のいる経済事務室から向鉢巻の男が窓から顔を出して、玄関東側の外にいる約二〇名位の見物人に対し「横暴な警察はわれわれの手で粛正する、明日からは皆様の温い警察として事務を執る、この赤旗がものをいう」と赤旗を指さしながら話し、食肉商の原審公判証人斎藤二郎の証言(統公二五冊三二丁裏)によれば、午後七時頃から三〇分おき位に市署に行つてみたが、市署玄関口に道路に向つて立つていた二人が大声で二回位「平市警察署を占領」と叫び、被告人渡辺安己の検察官に対する供述調書(統証二冊一八四丁)によれば、午後八時頃左右の事務室を歩き廻り、玄関を見ると赤旗が十字にかけられてあり、中の同志は「われわれの警察になつた」等と言つていたことが認められる。なお、被告人熊田豊次の検察官に対する供述調書(統証二冊三六五丁)、同東務の検察官に対する供述調書謄本(分証四冊一六二丁裏)によれば、右玄関柱に交叉された大赤旗二本は午後一一時半頃群衆が引揚げる時まで掲揚されていたのである。
以上に徴すれば、右大赤旗を交叉掲揚したものは幹部達であるけれども、署内外の群衆の大多数はこれに同調し少くともこれを認容していたことを肯認するに十分である。
6 赤旗が交叉掲揚された頃の署内外の状況をみるに、市議大野友春が事件後一個月ほどして供述した検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一五〇丁裏)及び同人に対する原裁判所の証人尋問調書(統証一三冊七七丁)によれば、その頃市署附近の野菜市場には赤旗を持つた約三〇名位の同志が棍棒を持つて一団をなして警戒し、署前では約二〇〇名の群衆が気勢をあげていて、その中には二尺位の棒を持つた者が多数居り、市署玄関口には四、五尺の棍棒を持つた約一〇名位が見張つていて、出入者を誰何していたことが認められる。右大野友春の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一五一丁)、同人に対する原裁判所の証人尋問調書(統証一三冊七九丁)、及び原審公判証人鈴木忠正の証言(統公二三冊二六九丁、二七六丁)に徴すれば、署内では署長室、警備、経済両事務室、客溜等に計約二〇〇余名の群衆が一杯で、署長室と次の警備事務室だけを通じて八〇余名まで数えたが、それ以上は数えられず、或は労働歌を歌い、赤旗を振り、或は棒で床を突鳴らす音、罵声等騒然とし、署員は呆然としてただウロウロするばかりで、署員間の連格は殆んどとれず、口さえ満足にきけない状況で、署長室では群衆が、「馬鹿野郎、表に出してぶん殴つてしまえ」と叫ぶと、署長と交渉していた代表者はこれを阻止していた様子が見えたが、警察の機能は全く果せなかつたことが認められ、名実ともに不法占拠の状態になつていたことが窺われる。そして、原審公判(統公三冊一〇五丁、一三二丁、統公三二冊八八丁)及び当審(控証三冊七八丁)証人本田正治、原審公判(統公六冊七四丁)及び当審(控証五冊六四丁)証人伊藤徳雄、原審公判証人矢吹大一郎(統公二〇冊二四丁、五一丁、七五丁)の各証言によれば、間もなく矢吹公安委員も見えて本田署長と打合わせて、午後六時頃国警県本部に応援警察官の派遣方を要請したことが認められる。なお、原審公判証人橋本岩夫の証言(統公六冊二一四丁)によれば、橋本平地区署長は、三、四十名の応援警察官を地区署から出しても、却つて騒動を大きくして警察官に犠牲者を出すに過ぎないと考えて、本田市署長と合意的に応援警察官を出さないことにしたものであり、同証言(統公六冊二一三丁)及び当審証人柴田義房の証言(控証五冊二〇二丁以下)によれば、平地区署としても群衆の別動隊や隣接する朝連のことなども顧慮して自署の警備に手一杯の状況だつたことが認められる。
7 原審公判(統公三二冊八六丁)及び当審(控証三冊八一丁以下)証人本田正治、原審公判証人橋本岩夫(統公六冊二〇三丁)、同道向久右衛門(統公二三冊二一三丁)、同蓬田真(統公二一冊六一丁)、同小泉辰雄(統公二三冊四五八丁)、同堀英一(統公二一冊二〇八丁以下)、同坂本一(統公二三冊二八五丁)の各証言、証人大野友春に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊八六丁以下)、朴重根(統証五冊一二六丁)、被告人佐藤一(統証四冊一二四丁)、同茂木正吉(統証三冊一三丁以下)、同小宮薰(統証四冊四八〇丁、四九四丁、四九五丁)の各検察官に対する供述調書によれば、国警県本部へ応援警察官の派遣方を要請したのと前後して、午後六時過頃内郷町方面の暴力団が日本刀を持つて平市署に集つている群衆を襲撃する旨の情報を伝えた一人の女があり(その情報が全然根拠のないものではなかつたことにつき原審公判証人蒲生正利の証言((統公三五冊七三丁以下))参照)、代表の要求により警察側は内郷町署に対しその調査方を電話連絡し、村上俊雄の下に朴重根が指揮して一班数名宛数班の見張り警備隊を編成し、棍棒石塊を携帯させて市内各要所に配置して見張り警戒に当らせ、通行人や自動車の検問を実施したことが認められる。右電話連絡のあつた時刻につき内郷町署次席の原審公判証人平田直男(統公二五冊一八二丁)は午後四時半頃と述べているが、同署長の原審公判(統公一八冊二九八丁)及び当審(控証二冊一〇五丁)証人塩谷重蔵の証言によれば、午後六時頃であり、当審証人本田正治の証言(控証三冊八一丁)に徴すれば、国警県本部に応援警察官を要請したあとで午後六時過頃であり、被告人熊田豊次(統証二冊三二九丁)、同桜庭尚康(統証二冊一三三丁裏)、同佐藤一(統証四冊一二五丁)、同大竹保司(統証五冊二二七丁)の各検察官に対する供述調書に徴しても、午後六時過頃であることが明らかである。この警備隊配置検問実施の目的は、はじめは主として暴力団来襲に備えたものとみられるが、既に説明したとおり群衆は午後五時前後から応援警察官を一人も入れるなと叫んで市署附近を棍棒を持つた同志達で警戒していたのみか、市内紺屋町東宝劇場附近三叉路(内郷、湯本方面に対する)に赤旗を持つた数名の群衆が屯していたほどであり(福島民報記者鈴木亀吉に対する裁判官の証人尋問調書謄本((分証一冊八七丁))参照)、被告人桜庭尚康(統証二冊一三三丁以下)、同佐藤一(統証四冊一二五丁裏)、同藤咲普次夫(統証四冊四六八丁)、同阿久津成正(統証四冊一七四丁)、朴重根(統証五冊一二八丁、一五四丁)の各検察官に対する供述調書、原審公判証人磯目順孝(統公二二冊九五丁、一四九丁)、同矢野庫吉(統公二〇冊二一九丁)、同勝沼利雄(統公二七冊一六〇丁)の各証言、証人大野友春に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊八六丁、九七丁)に徴すれば、右警備隊配置は応援警察官に対処する目的をも含めたものであり、一、二時間ほどして暴力団は来ないことが判明したが、その後は殆んど専ら応援警察官に備えて、夜になつてからは合言葉を使用し、更に時々統制員が警戒所を見廻つて連絡統制につとめ、平地区署に対する見張りも出し、午後一一時半頃群衆が引揚げるまで検問が続けられたことが認められる。原判決の挙げる応援警察官要請と警備隊配置は同時刻頃であること、久の浜署員四名が午後九時頃市署に来た時客溜で誰何されても妨害されなかつたこと、橋本地区署長が制服で一人午後十時過ぎ署に帰る時警備場所を通つた際棒を持つた者も何等の行動に出なかつたこと、警備隊配置個所が内郷町方面に対し重点的になされたこと等を以ては、前記証拠に対照し到底原判決のいうような、専ら暴力団来襲に対する自衛の措置であるとは認め難い。しかも、会社社長の原審公判証人矢野庫吉の証言(統公二〇冊二一九丁)によれば、午後八時頃指揮者らしい人が「腹が減つても帰られては困る、今皆に帰られると残つた者が逮捕される、敵は引延ばし戦術をやつている、郡山、福島へ応援を頼み、二、三百名の警官が来る、われわれはそれに対し一戦を交える、首をかけても自分が指揮をとる」と群衆を激励していたことが認められ、炭礦労務係の原審公判証人勝沼利雄の証言(統公二七冊一六〇丁)によれば、午後八時頃腕章を巻いた人が台の上に上り「江名の遠藤君、この中に居るなら上つてくれ」というと、一人の男が台の上に上つたので、それに腕章をつけてやり、「白い腕章をした者は幹部であるから、その人がやれと言つたらやれ、やめろと言つたらやめろ、各方面から応援警察官が来るらしい、それに対抗するためだから心得ていて貰いたい」と署内に入つている多勢の群衆に言つていたことが認められる。
以上に徴すれば、警備隊の配置は代表幹部の指揮により群衆がその目的を諒し、その命令に服して出動し、出動しない他の群衆の大多数もこれに同調し、少くともこれを認容していたことを肯認するに十分である。そして、かかる措置は暴力団来襲に対する自衛の目的があるとしてもその不法性に消長なく、殊に夜になつては殆んど専ら応援警察官に対処したものであり、群衆の署内における行動を援護する意味のあつたことは否定できず、またそれが市民に不安を与えたことは看過できないところである。
8 原審公判証人矢吹大一郎(統公二〇冊二四丁乃至二八丁)、原審公判(統公三冊一〇〇丁、統公三二冊七二丁)及び当審(控証三冊七八丁)証人本田正治、原審公判(統公六冊七八丁)及び当審(控証五冊六四丁)証人伊藤徳雄の各証言によれば、午後六時半近い頃矢吹公安委員が署長室に現われると群衆は罵声を浴びせ、同委員が署長の罷免は公安委員会で決めることだから公安委員長を呼んでくるといい、三〇分の約束で午後七時五分までに連れ帰ることにして出かけたが、同委員の乗つた自動車に小さい赤旗をつける悶着があつたことが認められる。原審公判証人大沼智代春(統公二六冊二八二丁)、同本田正治(統公三冊一〇七丁、統公三二冊七七丁)、同橋本岩夫(統公六冊二一四丁)、原審公判(統公六冊七四丁、九五丁裏)及び当審(控証五冊六五丁)証人伊藤徳雄の各証言、被告人長岡和夫の検察官に対する供述調書(統証二冊二二二丁)によれば、署内は暴力団来襲の情報で署内に侵入する群衆の数は更に増し、署長室だけで八五名まで数えられたが、それ以上は数えられず、日野定利の首唱で労働歌を合唱することとなり、鈴木光雄以下代表幹部をはじめ、署長室、警備、経済両事務室、客溜等の群衆はもとより署外の群衆も相呼応して歌い出し、一つ歌い終るとも一つ歌うといつた調子で、硝子も割れんばかりに一大合唱団を現出し、棒を持つている者はそれで床を突鳴らし、持たない者は足で踏鳴らしたことが認められる。高橋初治(統証二冊四二八丁以下)、高橋はる(統証二冊八七丁以下)、富田和夫(統証五冊二丁以下)、被告人松崎ミエ子(統証五冊二〇六丁以下)、同桜庭尚康(統証二冊一二〇丁以下)、同杉原清(統証三冊六七丁以下)の各検察官に対する供述調書によれば、右と前後して、村上俊雄等約五〇名の群衆の一隊は更に組織労働者の応援を得るため列を組んで、平郵便局、平機関区、平駅構内、各事務所等に赴き、「闘争に一緒に立上ろう」と呼びかけたことが認められる。読売記者の証人桑島茂光に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊五九丁表)、福島民友記者の原審公判証人小泉辰雄(統公二三冊四五八丁表裏)、平市署員の原審公判証人磯目順孝(統公二二冊九二丁)、同村松友枝(統公二三冊一〇三丁、一六九丁)、同原審公判(統公六冊八〇丁)及び当審(控証五冊六二丁裏)証人伊藤徳雄の各証言によれば、その頃客溜で福島から来た同志が「若松、郡山、白川の同志も闘つているから頑張ろう」という趣旨の演説をすると群衆は拍手喝采し、幹部が「県内でも県外でも労働者に対する警察の弾圧に対し闘つている」「われわれの革命は刻々完成しつつある」というような演説をすると、群衆はワアツと喚声をあげたことが認められる。経済事務室の窓から鉢巻をした同志が顔を出して見物人に向い、「横暴な警察はわれわれの手で粛正する、明日からは皆様の温い警察として事務を執る、この赤旗がものをいう」と交叉掲揚された大赤旗を指して演説したことは既に述べたとおりである(原審公判証人茂木茂の証言((統公二〇冊三三七丁))、同人の検察官に対する供述調書謄本((分証一冊二八〇丁以下))参照)。また、当審証人柳田藤雄(控証四冊六一丁)、同梅田五月(控証五冊一五七丁)の各証言によれば、経済事務室で幹部らしい者が署員に対し「九月に革命がある、そうすればお前達は死刑だ、今のうちにいうことをきけば死刑を免除してやる」というと辺りの群衆は「そうだ、そうだ」と調子を合わせたことが認められる。洗濯業の原審公判証人政井正二の証言(統公二〇冊三六五丁)及び同人の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊二五三丁)によれば、暗くなつた頃幹部らしい朝鮮人が玄関口に出て来て群衆に向い「今東京の本部から祝電がきた、今日の行動が成功したことに対する祝電だ」と言つて読上げると、群衆は喚声をあげてはしやいだことが認められる。市議の証人大野友春に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊八三丁裏、八四丁)、被告人東務の検察官に対する供述調書謄本(分証七冊一三丁、一六丁)、原審公判証人伊藤徳雄(統公三二冊五九八丁)、同遠藤正利(統公二一冊五五九丁裏)、同橋本岩夫(統公六冊二〇七丁)、原審公判(統公二三冊三三一丁)及び当審(控証四冊一〇四丁裏)証人柳田藤雄の各証言を総合すると、午後七時頃雨が強く降り出し、署外の群衆の多くは署内に侵入して充満し、署内の群衆の数は三、四百名に達したと推認される。市議の証人大野友春に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊八五丁裏、九五丁)及び同人の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一五三丁裏)によれば、その頃警備事務室の群衆中には「全国一斉に蹶起しているからわれわれが勝つ、米軍が干渉すればソ連軍が直ちに上陸するから、この革命は絶対成功する」などと真面目に話す者のあつたことが認められる。福島民友記者の証人小泉辰雄に対する裁判官尋問調書(分証一冊七五丁裏、七六丁)、被告人東務の検察官に対する供述調書謄本(分証七冊一三丁裏)、原審公判証人伊藤徳雄の証言(統公六冊九九丁)によれば、群衆は中間報告や激励演説をきく時は労働歌の合唱をやめるが、それ以外は多少の中だるみはあつても殆んど労働歌を合唱し、赤旗を振り、棒で床を突き足で床を踏鳴らして調子をとる等喧騒を極めたことが認められる。
9 原審公判証人矢吹大一郎(統公二〇冊四〇丁)、同本田正治(統公三冊一〇二丁)、原審公判(統公六冊八一丁、統公三二冊五七六丁)及び当審(控証五冊六六丁)証人伊藤徳雄の各証言によれば、午後七時四〇分頃(本田署長が時計を見た)矢吹公安委員が一人で遅れて帰つて来て署長室に入ると、鈴木磐夫が「約束が違うではないか」といい、傍の金竜洙が憤然として、「連れて来ると言つて連れて来ないのか、この野郎ぶち殺してしもう」と怒号しながら火箸を取つて振上げたので、伊藤次席がその手を押えて火箸をもぎ取り、鈴木光雄や日野定利の同志もこれをなだめたことが認められる。原審公判証人山崎与三郎の証言(統公二四冊九三丁)、及び同人の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊二〇一丁以下)、原審公判証人本田正治(統公三二冊八〇丁)、当審証人伊藤徳雄(控証五冊六六丁裏)の各証言によれば、山崎公安委員長と猪狩公安委員はこれより先来署して二階に居たのであるが、間もなく署長室に来ると罵声を浴せられたが、鈴木光雄等代表に対し「署長の罷免は大問題で、調査の上公安委員会を開いて諮つた上でなければ返答しかねる」という趣旨のことを答え、代表との間に押問答が繰返されたことが認められる。原審公判(統公三冊一〇八丁、統公三二冊八三丁)及び当審(控証三冊七四丁)証人本田正治の証言、柳田藤雄(分証一九冊一九九丁裏)、小林清(分証一冊一七五丁)の各検察官に対する供述調書謄本によれば、午後八時一五分頃(本田署長が時計をみた)群衆の一団が事務室の方から赤旗を持つて歌いながら来て騒いだので、本田署長が朴重根に出してくれというと、朴重根は「出す出さないはわれわれの方で指揮する、署長の知つたことでない、余計な口を出すな」といい、署長室から一部の群衆を廊下の方に出したが、すぐまた入込み、朴重根が群衆に対し「署長が出ろといつているが、みんなどうだ」というと、群衆は「われわれの税金で建てた庁舎だ、雨が降つているのに出られるか、署長が出ろ」と叫ぶ有様であつたことが認められる。また、被告人東務の検察官に対する供述調書謄本(分証四冊一六一丁表)によれば、午後八時頃客溜に来た時玄関口から内部に向つて二〇才から二十五、六才の男五、六人の者が「労働者の人民警察ができた、戦えばこのようになるんだ、革命は一日でできるんだ」と呼号すると、部屋の人達は一斉に拍手し喊声をあげたことが認められる。会社社長である原審公判(統公二〇冊二一九丁)及び当審(控証四冊二一六丁裏)証人矢野庫吉の証言、朴重根の検察官に対する供述調書(統証五冊一二八丁)によれば、午後八時頃群衆中から空腹になつたという声があつたのに対し、指揮者らしい人が受付台に上り、「腹が減つても皆は帰られては困る、自分も朝から食つていない、それに今皆に帰られると、残つた者は逮捕される、敵は引延ばし戦術をやつているが、われわれの腹の減るのを待つている、敵は郡山、福島へ応援を頼み、二〇〇名から三〇〇名位の警官が来る、われわれはそれに対して一戦を交える、首を賭けても自分が総指揮をとる」等と激励していたこと先にも一言したところである。
10 そのうち後段説明する如く(その五の四の2参照)、午後八時半頃同志利川鎮吾が逮捕留置されていることを知つた群衆中少くとも四、五十名が留置場前及びこれに通ずる廊下に殺到し、うち十四、五名が留置場入口の戸及び監房の扉を破壊して利川を奪還するという騒ぎが起つたが、その間鈴木光雄等代表はこれを阻止する態度は全く示さなかつた。署内の暴行喧騒はこの時頂点に達したが、その後も署内に充満した群衆の数は次第に減りつつも、その喧騒等の状態は引揚まで続いたのである。なお、前叙の如く平地区署は自署の警備に手一杯であり、消防団副団長の原審公判証人水竹伊之助(統公二四冊一七一丁)、同阿部伝六(統公一九冊一八一丁、一八六丁)、同矢吹大一郎(統公二〇冊二九丁)、同伊藤徳雄(統公六冊一〇二丁、統公三二冊六〇一丁、六〇二丁)の各証言によれば、平市署側は消防団に市内の治安維持を依頼することとしたが、手続がうまくゆかず、消防団は群衆の引揚後約二〇〇名が警備についたことが認められる。
11 そして、原審公判証人山崎与三郎(統公二四冊九四丁)、同本田正治(統公三冊一一四丁)、原審公判(統公六冊八五丁以下)及び当審(控証五冊六八丁)証人伊藤徳雄の各証言によれば、右留置場の被疑者奪還騒ぎのために公安委員達は回答を留保して同所二階刑事室に引きあげたことが認められる。原審公判(統公三冊一一六丁、統公三二冊九一丁裏)及び当審(控証三冊八七丁)証人本田正治の証言によれば、そのあと署長室に残つた本田署長に対し幹部が「署長ずるい、革命は近いんだぞ、八、九月にはわれわれの世の中だ、その時はよい署長になれぬぞ」「中共軍が横浜に上陸するんだ」などというと、他の群衆も「本当だぞ、署長、ボヤボヤしているな」と口を合せたことが認められる。その頃、客溜の受付台に上つた幹部が「白い腕章をつけた者が幹部だから、その人がやれと言つたらやれ、やめろと言つたらやめろ、応援警察官に対抗するためだから心得ていて貰いたい」と署内多数の群衆に言つていたことは既に説明したとおりである(原審公判証人勝沼利雄((統公二七冊一六〇丁))の証言)。また、被告人東務の検察官に対する供述調書謄本(分証七冊一三丁裏以下)によれば、客溜の受付台で、村上俊雄、朴重根、島幸次郎、長江久雄等の幹部から、交渉の経過、県内各地や仙台方面の応援警察官の動向とその阻止を図つていること、飯のたき出しを署に交渉していること等が群衆に報告されたことが認められ(群衆が応援警察官の動向等各地の情報を入手交換したのは、半杭学の検察官に対する供述調書((統証二冊三八九丁、三九三丁以下))、原審公判証人渡辺安広の証言((統公二七冊三八二丁))によれば、全逓平支部書記局の手を通じて各地と連絡していたものであることが認められる)、原審公判証人草野博の証言(統公二七冊四二〇丁以下、四二二丁)によれば、国鉄労組福島支部闘争委員会の名で同労組郡山分会に対し「国鉄小野新町自動車区のトラツクで平市署応援に出かける小野新町署員を如何なる方法でも阻止せよ」との電話指令が発せられたことが認められる。なお、原審公判証人磯目順孝(統公二二冊九六丁)、同村松友枝(統公二三冊一〇二丁)、同根本鬼一(統公二四冊二九六丁)、同篠谷清重(統公二三冊一四七丁)、同本田正治(統公三冊九三丁、九七丁、一〇二丁、一〇六丁、一一一丁、一一九丁、二二七丁、統公三二冊三三六丁)、同伊藤徳雄(統公六冊三六丁)、同橋本岩夫(統公三二冊三九一丁、三九二丁、三九六丁、四八四丁)、同後藤一六(統公二〇冊一六三丁)、同柴田徳二(統公二〇冊二八五丁、二八九丁、二九四丁)の各証言、証人大塚正勝(分証一冊一〇三丁裏)、同小泉辰雄(分証一冊七六丁)に対する各裁判官尋問調書謄本、矢吹大一郎(分証一冊二一八丁裏)、山崎与三郎(分証一冊二〇三丁裏)、被告人朴鐘根(分証七冊四一七丁)の各検察官に対する供述調書謄本、当審証人本田正治の証言(控証三冊七二丁以下)に徴すれば、群衆の署内侵入以来引揚までの間、署内の群衆中には或は棍棒で床を突き、振廻したりして器物を毀し、或は警官に対し殺してしもうと怒鳴る者あり、警官を足蹴にしたり、警官を数名で取囲んでのしてしもうと喰つてかかり、或は鈴木磐夫は交渉中屡々「この警察が人民のものになるのは一個月そこそこだ」など革命達成確信の言辞を口にし、又署長や公安委員に対する交渉は多衆の不法な威力を背景に時折「やつてしまえ」など怒号する等威嚇的で、場合によつてはいかなる危害を加えられるかも知れない意味にとられる言動があり、署長や公安委員は不安畏怖の念を抱いたことが認められる。
12 山崎与三郎の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊二〇三丁)、原審公判証人山崎与三郎(統公二四冊九七丁)、同伊藤徳雄(統公六冊八九丁)の各証言によれば、午後一〇時頃鈴木光雄、日野定利等約一〇名の代表幹部は他の群衆と共に二階刑事室に行き、山崎公安委員長と更に交渉を重ね、即答を求めたが、山崎公安委員長は事実を調査してから回答する旨答え、この状態でこれ以上交渉を続けても無駄である旨断つたことが認められる。原審公判(統公六冊九〇丁、統公三二冊五九三丁裏)及び当審(控証五冊六九丁)証人伊藤徳雄、原審公判証人本田正治(統公三二冊三一二丁)、同柴田徳二(統公二〇冊二六九丁、二七〇丁、二七五丁)の各証言によれば、その頃階段から二階にも数十名の群衆がおり、そのうち柴田市議が来署し、双方に対し一応引揚げることにしてはどうかといい、代表幹部は「俺達の方はやめたいが、警察に誠意がない」といい、伊藤次席が「夕食も食べていない人があるから、代表だけ残つて帰えしたらよかろう」というと、鈴木光雄等は「応援警察官が来るから、俺達だけ残ればぶち込まれる、他の者を帰えすわけにはいかない」と言つたことが認められる。
13 原審公判証人伊藤徳雄(統公六冊九一丁)、同本田正治(統公三冊一三二丁、統公三二冊三二四丁)、同星肇(統公二七冊一〇九丁)の各証言によれば、その頃から群衆は応援警察官の来着近しとの情報を得て引揚げる空気が動き出したものであり、なお当時応援警察官は平地区署に七、八十名来ており、続々と翌朝まで仙台、栃木、茨城、埼玉等から三〇〇余名が到着したものであることが認められる。原審公判証人伊藤徳雄(統公六冊九二丁)、同塩谷重蔵(統公一八冊二四二丁)の各証言、山崎与三郎の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊二〇四丁)、被告人小宮薰(統証四冊四八一丁)、同長岡和夫(統証二冊二二四丁表)、同藁谷好太郎(統証四四冊一八一丁)、同穂積博光(統証三冊一二九丁裏)、同須藤常道(統証三冊一七八丁)、同茂木正吉(統証三冊一七丁、一八丁)の各検察官に対する供述調書、被告人東務の検察官に対する供述調書謄本(分証四冊一六二丁裏)によれば、午後一一時頃から二階の群衆はおりはじめ、午後一一時半頃(山崎公安委員長が時計をみた)鈴木光雄が山崎公委員長に引揚げる旨を告げて、交渉を打切り、同人等の指揮で全員約二、三百名(被告人茂木正吉の供述及び塩谷重蔵の証言参照)が玄関前道路に各方部別に四列縦隊に集合し、交叉掲揚した大赤旗をおろし、鈴木光雄が「応援警察官が来ることになつたし、おそいからこれで解散する」旨宣し、日野定利が「血気にはやつて一時に昂奮しても革命は成立しない、一歩後退二歩前進、直ちに解散する、個人行動はとらずに細胞毎にまとまつて帰れ」と指示を与え(被告人小宮薰、同藁谷好太郎の供述参照)、群衆はスクラムを組み、労働歌を合唱した後、各方部毎に隊列を組んで退散したことが認められる。
以上に徴すれば、二、三百名ないし三、四百名の群衆が六時間余署内に充満滞留し、それは幹部が滞留させたものであり、幹部が署玄関に大赤旗を交叉掲揚すると署内外の群衆の大多数はこれを認容し、幹部の指揮により市内各要所に見張り警備隊が配置されると他の群衆の大多数もこれを認容し、その間幹部の激励演説等があると拍手喝采し、それ以外は幹部に命ぜられた見張り警備等の役割のない群衆は、多少の中だるみはあつても殆んど、署外の群衆と呼応して、労働歌を怒号し、棍棒で床を突き足で蹴つて調子をとる等喧騒を極めたが、それは署前の衝突の結果を背景に更に多衆の不法な威力を恃んでの交渉を支援するために出た行動であり、しかも後段説明する如く、その間随時随所に行われた暴行脅迫の所為は大多数の群衆の共同意思に出たものであることが認められるのである。叙上に照し、このような署内に侵入した群衆が最初から同署を不法に占拠する意図があつたことは認め難いが、少くとも赤旗を交叉掲揚した時から幹部中にこれを不法占拠する意思があり、他の群衆の大多数はこれに同調し又は不法占拠の状態にあることを認識しながらこれを認容していたものであることを肯認するに十分であつて、不法占拠が建物に対する暴行であることはいうまでもない。
原判決は、群衆の署内立入り後署員が群衆を退去させるにつき十分な努力をした形跡なく、却つて応援警察官の到着を待つて逮捕する意図の下に故意に群衆を滞留せしめる態度があつたとし、不法占拠を否定する有力な根拠としている。けれども、前叙諸証拠によつて明らかなように、最初の署前の衝突で署員等は群衆のため圧倒され、署員もはじめ侵入を制したが制しきれず、署長も再三幹部に対し群衆を退去させるよう要求したが無視され、それ以上なすことは不可能な状況下にあつたものであり、原審公判証人山崎与三郎の証言(統公二四冊九八丁)、山崎与三郎(分証一冊二〇四丁)、猪狩庄平(分証一冊二一二丁)の各検察官に対する供述調書謄本によれば、本田署長は応援警察官の来着をまつて一部群衆を逮捕したい意向らしかつたことは窺われなくはないが、仮令そうであつたにしても、既に説明したように代表幹部は何時でも群衆を指揮して引揚げ得る地位にあり、かつ応援警察官の情報を刻々入手しつつあつたのであるから、原判決の挙げる根拠を以て原判決のように不退去の意思ないし不法占拠の意思、認識を否定することはできない。
因みに、凡そ警察署に対し何等かの抗議或は交渉をなしたいとする多数者がある場合において、その建物の状況、執務及び利用者の状況、抗議の内容、所要時間その他諸般の具体的状況に照し妥当とみられる範囲内で、代表者を立入らせる等の方法を以て平穏裡にその折衝がなされる限り、この立入りの所為は建物の管理者である署長の推定的承諾があるものと解し得られ、何等違法性を有するとは認められないであろうが社会通念上警察署に立入る一般国民の態度として推定的承諾ありと認められる限度を超えてその管理者の意思に反するものと考えられる場合は違法な侵入行為といわねばならない。本件においては、多数の群衆が押しかけたので警察側で代表三名にするよう制止したのを強いて多数を恃んで押入ろうとしてこれを阻止しようとする警察と衝突し乱闘となり、署員に負傷者一〇名を出す事態となつたので、この危機を収拾するため本田署長等が代表と話すから静まれと制止して一応おさまつたのであるが、かかる状況の下において本田署長が代表と話すと言つたことは、その真の自由意思から出た承諾とはみ難いのであつて、仮に同署長にその気持があつたとしても、乱闘の結果を背景に更に多衆の不法な威力を恃んで危害を加えかねまじき気勢を示す雰囲気を利用しての交渉であり、更に脅迫の予想される場合であるから、かかる交渉の反良俗性に鑑みその違法性を阻却するものとはみられず、その交渉と不可分の関係にある署内立入りであるから、その立入りについて承諾があるというのは殆んど意味をなさない。その他の群衆の署内立入りについては、連絡員と称して立入つた者や「われわれの税金で建てた警察だから、構わないから皆入れ」といわれて立入つた群衆が管理者たる署長の意思に反することを認識していたものと認め得るのはもちろんであるが、幹部から署長が許可した事実がないのに「署長の許可が出たから入れ」といわれ又はそのことを伝え聞いて立入つた群衆も、多衆の不法な威力を恃んでの交渉を支援する意思で立入つたもので、立入る前既に不法占拠の状態になつている交渉支援のための喧騒状況や立入り後の一層喧騒を極めた状況等からみて、真に許可が出たものと信じて立入つたとは到底認められないのであつて、署長の意思に反することを認識していたものと認められ、雨宿りの意思もあつたとしてもその不法性に何等の消長をきたさない。その後降雨が強くなつた時立入つた群衆も、署内外の混乱状態やそれまで署内の群衆と呼応して右交渉を支援しており署内に入つても同様の態度に出るのであるから、雨宿りの意思があつたとしてその立入りが署長の意思に反することを認識していたものと認めるに何等妨げないのであつて、弁護人の主張する如き建造物侵入罪の成立を否定すべき事由とはならない。
四 論旨は、平市署内における群衆の暴行脅迫の所為については、留置場の場合は留置場に押入つた十数名のほか、留置場前に押寄せた七、八十名に共同意思の認むべきは当然であるばかりでなく、群衆の実力による被疑者奪還と署長室の代表者等の即時釈放要求とは密接な関連を有するもので、それは署長室内における群衆の行動と留置場及びその附近廊下における群衆の行動は、互に関連し一体となつて行われたものであり、その他の場合の少数者による暴行脅迫も、交渉支援のためなした群衆の喧騒行為と包括して観察すべきものであり、いずれも一つの集団の互に関連した共同行為であつて、狭隘な署内で或は呼応し或は同時に同一行動となつて行われたものであるから、群衆全員につき共同意思を認むべきは当然である旨主張する。
原判決は、署内における暴行脅迫の所為については、留置場の場合は偶発的に、その他の場合は個々的散発的に、且ついずれも少数者により、署内に滞留して交渉支援の態度に出た大多数の群衆の意思とは関連なしになされたものと認められ、留置場に押入つた十数名だけには共同意思があつたものと推認されるが、その十数名の者が右個々散発的暴行等をなした者と意思を共同にしたとは認め難く、個々散発的暴行等に出た者相互の間に意思の共同があつたものとも認め難いし又右留置場に押入つた者或は個々散発的暴行等に出た者を以て多衆と認めることは困難である旨判断している。
そこで、記録を精査し当審における事実取調の結果に徴するに、署内における暴行脅迫の所為はその大部分が不法占拠の状態継続中に行われたものであるが、そのうち留置場の場合ははじめからかかる事態が起るとは予期しなかつたという意味では偶発的であるが、その暴行等の所為に出た者は多衆の威力を恃んでなしたものであり、留置場に押入つた十数名に共同意思のあるのはもちろん、「同志を奪還せよ」との叫びを聞いて留置場前に押しかけた数十名にもこれに同調する共同意思が認められ、署長室における代表幹部等もこれを認容していたことが肯認し得られる。その他の署長室、両事務室、客溜等における暴行脅迫や器物毀棄の所為も、これを行つた者は少数であり、随時随所に行われたものではあるが多衆の威力を恃んでなしたものであり、代表幹部等を含む他の群衆の大多数もこの程度の暴行脅迫等は、先にも述べたように、これを認容する未必的共同意思の既に存していたと共に、現にこれを認容していたことが肯認し得られるのである。以下具体的に証拠に基いてその説明をする。
1 既にこれまでに詳細に証拠を挙げて説明してきたように(その五の一参照)、平市署前で警察側と衝突した約一〇〇名の群衆の大多数に共同意思の成立したことが認められ、署前の乱闘が一応おさまつた後も、同時にその共同意思が全面的に消滅したのではなく、乱闘の結果を背景に更に多衆の不法な威力を示して相手方をして、応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させる気勢を示す雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながら、これを認容すると共に、事態の発展や相手の出方如何により時と場合によつては更に暴行脅迫等の所為に出るかも知れず(例えば、或は交渉中さらに脅迫的言動が行われるかも知れないし、署内に群衆が多数侵入して行くかも知れず、或は応援警察官が来れば乱闘になるかも知れないし、来なくとも相手と次第によつては署員等に対し暴行脅迫をなしたり、器物を毀したりするかも知れず等)、その暴行脅迫の所為に出る者は多衆を恃んでなすもので、他の群衆はこれに同調し少くともこれを認容するという未必的共同暴行脅迫の意思を持ち、代表は交渉し、他の群衆はこれを支援する態度をとつたことが肯認し得られるし、急報に接して待機していた朝連から馳付けて合流した一〇〇余名の群衆やその後刻々馳付けた群衆の大多数も、棒を持つた多数同志や署前の乱闘の跡や話を見聞きし、或は幹部の激励演説をきくうちに、署前の衝突を認識して、前記雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容すると共に、前同様の未必的共同暴行脅迫の意思を持つて、右交渉を支援する態度に出たことが肯認し得られるのである。これらの群衆の大多数は、署前の衝突の約三、四十分前まで内郷町署において署員に対し暴行脅迫を加え、これに同調し少くともこれを認容してきた百四、五十名と、約三、四時間前に湯本町署において、署員に対し脅迫的に平市署に応援警察官を出さない旨を確約させて引揚げた百数十名を中心とするものであり、その構成員は共産党員及びその影響下にある労組員、朝連関係者等の組織大衆で、幹部の指揮統制に服する人達であつて、先にあげた(その五の一参照)被告人達の、同志の暴行等を知りながらも党の規律に従い、団体の構成員として一人でも余計に居る方が有利であると考えて行動を共にし、「役割を命ぜられた者以外は表で労働歌を歌つたり、或は署内に居たり、或る者は署長室に入つて交渉を援助したり、各情勢に応じて闘争したわけで、同じ目的に向つて合同して闘争した」(被告人藁谷好太郎の検察官に対する供述調書((統証四冊一八三丁))参照)という気持がその大多数の群衆の気持であつたことが窺われる。そして、署内における群衆の暴行脅迫等の所為は、その大部分が不法占拠の状態継続中に行われたものであるが、前段(その五の三)で詳細に証拠を挙げて説明したところに徴すれば、既に午後四時過頃から群衆が逐次署内に侵入しはじめて午後五時頃には約一〇〇名余に達し、午後五時半頃から午後一一時半頃までは二、三百名ないし三、四百名の群衆が署内に充満滞留し、それは幹部が滞留させたものであり、幹部が署玄関に赤旗を交叉掲揚すると群衆の大多数はこれを認容し、幹部の指揮により市内各要所に見張警備隊を配置すると他の群衆の大多数はこれを認容し、その間幹部の激励演説があると拍手喝采し、それ以外は多少の中だるみはあつても殆んど、署外の群衆と呼応して幹部に命ぜられた見張警備等の役割のない群衆は、労働歌を怒号し、赤旗を振り棍棒で床を突き足で床を蹴つてその調子をとる等喧騒を極め、それは署前の衝突の結果を背景に更に多衆の不法な威力を恃んでの交渉を支援するために出でた行動であつて、かかる状況のうちに留置場の被疑者奪還は後に説明するとして、その間随時随所に行われた署長、公安委員に対する脅迫的言動(それは単なる粗暴な言動ではなく、人の身体に危険を感じさせるような勢力になつていたことが明らかである)や、署員等に対する暴行脅迫、器物等に対する損壊行為であるから、これをなした者は少数であるけれども、多衆の威力を恃んでなしたもので、他の群衆の大多数はこれを認容していたことが認め得られ、しかもこの程度の暴行脅迫等は既にこれを認容する未必的共同意思の存していたこと先に説明したとおりであつて、その共同意思を肯認するに十分である。
原判決は、かかる行為がなされた際群衆中にこれを制止する者が見受けられたことを以て、署内に滞留する大多数の群衆の意思とは関連なしになされたものと判断している。成程、証人大野友春に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊七九丁裏)によれば、午後五時半頃署長室において労働者が「馬鹿野郎、表に出ろ、ぶん殴つてしまえ」というと、署長と交渉していた代表がこれを阻止していた様子が見えたことが認められ、原審公判証人伊藤徳雄(統公六冊八一丁、統公三二冊五七六丁)、同矢吹大一郎(統公二〇冊四〇丁)の証言によれば、午後七時四〇分頃署長室で矢吹公安委員に対し金竜洙が「この野郎、ぶち殺してしもう」と怒号しながら火箸を取つて振上げたので、伊藤次席がその手を押えて火箸をもぎ取つた時、鈴木光雄、日野定利の同志もこれをなだめたことが認められる。けれども、これら代表者は最初から署前の乱闘を背景に、更に多衆の不法な威力を恃んで交渉するものであることを認識しながら敢えて交渉しているのであり、掲示板問題が落着して署側はホツとして引揚げるものと思つたのに、到底何人が考えても直ぐには解決する筈のない要求事項を持出して、敢えて群衆を署内に侵入滞留せしめ、後述の如く留置場の被疑者奪還の際はその騒ぎを阻止する態度は全く示さず(毎日記者の証人大塚正勝に対する裁判官尋問調書謄本((分証一冊一〇五丁裏))参照)、引揚げるつもりならば何時でも群衆を指揮して引揚げ得るのに敢えてこれをしないのであつて、かかる代表幹部が既に群衆により署員等が圧倒された後において或る時期に或る一部所為を制止するような行為があつたとしても、それはその代表幹部の行動の全体としての暴行脅迫の共同意思に消長をきたし、ないしは大多数の群衆全体としてのそれに影響を及ぼすものとは認め難い。また、原審公判証人朴鐘根の証言(統公二九冊三一五丁裏)によれば、午後五時半過頃から六時頃二、三人の人が棒で床を叩いたのを朴鐘根自身がとめたというのであり、証人木幡和夫に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊五六丁)によれば、午後八時過頃事務室で朝鮮人の一人が物差様の物で電灯を壊しているのを他の人が止めていたというのであるが、仮令これらのことがあつたとしても、既に群衆が署員を圧倒した後において、或る時期に一、二の者が僅かの一部暴行を制止するようなことは、大多数の群衆全体として共同意思に消長をきたさないこと右に述べたとおりである。
なお、原判決は、署長室以外における暴行脅迫の所為は、交渉と無関係な場所、状況の下になされ、かかる行為がなされた際群衆中にこれに同調する動きがあつたとみられる証拠がないとし、群衆の署内立入りの事情をも併せ考えると、これらの暴行脅迫の所為は交渉をまつ署内滞留の大多数の群衆の意思とは関連なきものと認められる旨判断している。けれども、前叙諸証拠により説明した如く、その大多数の群衆も右程度の暴行脅迫はこれを認容する未必的共同意思の既に存していたと共に、現にこれを認容していたことが肯認されるばかりでなく、署長室と警備事務室との間の戸は開放され、客溜とその両側の警備、経済両事務室とは各高さ三尺余の受付台によつて区切られているだけで、その間に特別な障壁なく、客溜から廊下に通じているのであつて(この構造、状況は原判決も認めている)、署長室、両事務室、客溜等にいる群衆は相互にその大体の行動が判るのであり、しかも連絡員が時々受付台に上つて交渉等の報告をし、群衆はこれに対し拍手しているのであるから、交渉に無関係の場所、状況とはいえないし、又群衆の署内立入りの事情は原判決のいう如き、署長の許可があつたものと誤信し雨を避けて交渉をまつ以外に他意なかつたものでないこと前段説明のとおりである。
2 原審公判(統公三冊一一一丁、一一三丁、統公三二冊八九丁)及び当審(控証三冊八三丁以下)証人本田正治、原告公判(統公六冊八三丁以下、統公三二冊五七九丁裏乃至五八一丁裏)及び当審(控証五冊六七丁)証人伊藤徳雄、原審公判(統公二三冊四一四丁、四二五丁、四三九丁裏)及び当審(控証四冊二四九丁以下)証人織井安吉、原審公判(統公二三冊三三〇丁)及び当審(控証四冊六三丁以下)証人柳田藤雄、原審公判証人橋本岩夫(統公三二冊四一五丁)、同星肇(統公二七冊九八丁、一〇〇丁)、同遠藤正利(統公二一冊五五六丁)、同鈴木忠正(統公二二冊二七九丁)、同新妻二郎(統公二四冊二一五丁)、同大石正(統公二一冊四八五丁)、同野沢武蔵(統公一九冊九一丁)、同大塚正勝(統公二四冊四〇丁)の各証言、証人大塚正勝に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊一〇五丁)、証人大野友春に対する原裁判所の尋問調書(統証一三冊八八丁裏)及び同人の検察官に対する供述調書謄本(分証一冊一五五丁裏)、証人小泉辰雄に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊七六丁)、朴重根の検察官に対する供述調書(統証五冊一三〇丁以下)によれば、午後八時半頃になつて、同志利川鎮吾が逮捕留置されていることを知つた群衆の一部はにわかに騒ぎ出し、「同志を奪還せい」と叫び、これを聞いて馳付けた朴重根等が「こちらに来るな俺達のいうことをきけ」といい、署長室に馳戻つて代表幹部に報告すると、代表幹部らはサツと総立ちとなり、鈴木磐夫等が「一人だけ入れるなら、われわれをみんなぶち込め」「皆共同で来ているんだから、全部ぶち込め」と叫ぶや、一同「そうだ、そうだ」といい、額に青筋を立てた金逢琴と共に、静かな口調の鈴木光雄もこの時は凄い権幕で、腕をまくつて「留置するとは以ての外だ、すぐ釈放しろ」と署長に喰つてかかり、多衆の不法な威力を背景に相手方をして応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させる気勢を示して迫つた右要求に対し、署長が事態やむを得ず「取調べてから釈放する」と言つて、伊藤次席にその手続きを命じたが、これと前後して、「同志を奪還せい」の声を聞いて群衆中少くとも四、五十名が留置場前及びこれに通ずる廊下に殺到し、留置場出入口の引戸を二、三名の署員が押えているのを押しあげ、棍棒で硝子戸等を滅茶苦茶に破壊し、看守巡査織井安吉が拳銃を擬したので一旦ひるんだが、同巡査がこれをおろしてポケツトに入れた瞬間、うち十四、五名の群衆はただならぬ喚声をあげて留置場内に雪崩れ込み、同巡査の両手両足に組付き、殴打し、うち一名は実包四発装填の右拳銃を奪取し、他方監房の鍵を叩き毀して利川を奪還し、その間他の群衆は数名の署員をおさえつけており、利川の代りに織井巡査を監房にぶち込んで金具を打ちつけたことが認められる。毎日記者の大塚正勝が事件後一個月ほどして証言した同証人に対する裁判官尋問調書謄本(分証一冊一〇五丁裏)によれば、この大騒動に拘らず、鈴木光雄等はそのまま署長室で交渉をすすめようとしており、暴行を阻止する態度は示さなかつたことが認められる。原審公判証人伊藤徳雄の証言(統公六冊八四丁)によれば、伊藤次席から被疑者を奪還された報告を受けた本田署長が「そんなことでは仕方がない」というと、そこに居た代表幹部達は「それはお前の方で約束を守らなかつたからだ」と嘯いていたことが認められる。渡辺仲吉の検察官に対する供述調書謄本(分証一六冊一二九丁)によれば、群衆中には朴鐘根の兄(朴重根)が「この騒ぎも話せば判るので、喧嘩をしかけてきたのはお前達の方だ」と盛に怒号し(朴重根は昭和三〇年一月一八日死亡)、誰か「この上群衆を昂奮させると殺されてしもう」という者のあつたことが認められる。原審公判(統公二三冊三三二丁)及び当審(控証四冊六三丁)証人柳田藤雄の証言、証人斎藤敏雄(分証一冊四九丁)、同小泉辰雄(分証一冊九六丁)、同大塚正勝(分証一冊一〇五丁)に対する各裁判官尋問調書謄本、被告人東務の検察官に対する供述調書謄本(分証七冊一三丁裏)によれば、昂奮した群衆は柳田警部補を取囲んで「お前が張本人だ」と頭部を殴打したり、或は新聞記者室廊下側の壁等を棍棒で突破り、両事務室の引戸の硝子等を棍棒でガチヤガチヤ打割つたり、電灯笠を打毀したり、机の上のインク瓶を叩き割つたり、或は棍棒で床を突鳴らし、赤旗を振り労働歌を怒鳴り、罵声怒声をあげ、喧騒を極めたことが認められる。なお、原審公判証人遠藤正利の証言(統公二一冊五五六丁)及び原審検証調書(統証一二冊五五丁以下)によれば、留置場に押入つた十数名以外の者は、入口で阻止しようとする署員数名を押しつけているし、留置場内は狭隘で多数の群衆が一時に押入つて乱暴する余地のなかつた状況が認められる。
以上に徴すれば、直接留置場に押入つて利川鎮吾を奪還した十四、五名に共同意思の認められることはもちろん、「同志を奪還せい」との叫声をきいて留置場前及び廊下に押しかけた少くとも四、五十名の群衆にも、これに同調する共同意思が認められるばかりでなく、署長室における代表幹部等もこれを認容していたことを肯認するに十分である。そして、被告人太田万右門(統証六冊一三二丁以下)、同国井光政(統証三冊四八八丁以下)、同新藤栄(統証六冊四五一丁)、同渡辺仙一郎(統証六冊二四九丁以下)、同直井稔(統証四冊二三七丁以下)、同須道常道(統証三冊一八二丁以下)の各検察官に対する供述調書に徴すれば、留置場前に押しかけた少くとも四、五十名の者の中には、署前の乱闘を経てきた者も若干含まれていることが窺われる。署前の乱闘をし又はこれを認容してきた者が約一〇〇名あり、しかも内郷の暴力団の来襲や応援警察官が来た場合或は乱闘になるかも知れないとの未必的共同暴行の意思があつたのであるから、前記認定人員の他になお相当数の群衆が右留置場の被疑者奪還をも認容する意思があつたものと必ずしも推認されなくもないのである。原判決は、被疑者奪還の際、群衆中に暴行に出ることを制止した者があつたことによつても、廊下に押しかけた数十名の者に共同意思を認めることは困難である旨判断している。しかし、前記認定の如く、朴重根が群衆の乱入前「おれ達のいうことを聞け」と制止する如く言つて署長室に引返したことは認められるけれども(なお、原判決の挙げている被告人佐藤慶助の検察官に対する供述調書は、刑訴法第三二八条によつて提出したものである)、原審公判証人遠藤正利の証言(統公二一冊五五六丁)によれば、朴重根は乱入の際は群衆の先頭に立つていたことが認められるばかりでなく、前叙の如く「喧嘩をしかけてきたのはお前達の方だ」と署員に対し怒号しているのであつて、朴重根のはじめの制止する如き言動を以て、同人の共同意思又は押しかけた数十名の共同意思を否定することは困難である。
そして、留置場における場合は、はじめからかかる事態が起るとは予期しなかつたという意味においては偶発的であり、派生したものであるが、署内に二、三百名ないし三、四百名の群衆が充満し、労働歌を怒号し、赤旗を振り、棍棒で床を突き、足で踏鳴らしてその拍子をとり、玄関に大赤旗を交叉掲揚して人民警察を叫び、幹部の激励演説で活気立ち、暴力団来襲の情報で多数の群衆が棍棒をもつて警備を固めるなどして、暴力性をはらんでいたのであるから、かかる場合群衆心理の赴くところ、ややもすれば何かのきつかけで思わざる事態を惹起する危険性のあることはむしろ通常というべきであつて、前記の意味における偶発性を以て原判決の如く共同意思を否定することは困難である。
以上の次第で、署内に侵入した群衆の大多数が両事務室、客溜等で労働歌を合唱し、赤旗を振り棒で床を突き足で踏鳴らして拍子をとり、幹部が交渉報告、激励演説をするや他の群衆は拍手喝采する等して、いわゆる交渉支援の態度をとり、署玄関柱に大赤旗を交叉掲揚し、更に暴力団や応援警察官に備えて多数の群衆が棒等を持つて警備を固めている状況下で、署長室、両事務室、客溜等で少数者が随時随所に暴行脅迫等の所為をなし、留置場で数十名が被疑者奪還の暴行等の所為に出たものであるから、これらの暴行脅迫等をなした者はいずれも多衆の威力を恃んでなしたものであり、少数者により随時随所に行われた暴行脅迫等については、代表幹部を含む群衆の大多数にこれを認容する意思のあつたことが認められると共に、既にこの程度の暴行脅迫等はこれを認容する未必的共同意思の存していたものであり、又十数名により留置場で行われた被疑者奪還の暴行等については押しかけた数十名にもこれに同調する共同意思が認められるばかりでなく、代表幹部等もこれを認容していたことが肯認し得られるのである。
叙上説明し来たつたところに徴し、共同意思の点につき要約すれば、地区委の指導者幹部は群衆を動員した時には警察側との間に小競合い位の衝突が起るかも知れないという程度の未必的予期はあつても、実力を以て警察を制圧する意味のいわば騒擾性を認識した予期があつたものとは認め難いが、群衆が平市署に押しかけて玄関前で警察と衝突した際、その約一〇〇名余の群衆中四、五十名が警察官を棒で殴打したり投石したりして乱闘中、他の群衆の大多数はワツシヨワツシヨと掛声を発したり、赤旗を振つたり等して気勢を添え、右約一〇〇名余の群衆の大多数に共同暴行等の意思が成立したこと、その乱闘が一応おさまつた後も、同時にその共同意思が全面的に消滅したのではなく、その乱闘の結果を背景に更に多衆の不法な威力を示して、相手方をして応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させる気勢を示す雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながら、これを認容すると共に、事態の発展や相手の出方如何により、時と場合によつては更に暴行脅迫等の所為に出るかも知れず(例えば、或は交渉中さらに脅迫的言動が行われるかも知れないし、署内に群衆が多勢侵入するかも知れず、或は応援警察官が来れば乱闘になるかも知れないし、来なくとも相手と次第によつては署員等に対し暴行脅迫をしたり器物を毀したりするかも知れず等)、その暴行脅迫の所為に出る者は多衆を恃んでなすもので、他の群衆はこれに同調し少くともこれを認容するという未必的共同暴行脅迫の意思を持ち、代表は交渉し、他の群衆はこれを支援する態度をとり、急報に接して待機していた朝連から馳付けて合流した約一〇〇名余の群衆やその後刻々馳付けた群衆の大多数も、棒を持つた多数同志や署前乱闘の跡や話を見聞きし、或は幹部の激励演説をきくうちに、署前の衝突を認識して、前記雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容すると共に、前同様の未必的共同暴行脅迫の意思を持つて、右交渉を支援する態度に出でたこと、間もなく相当数の群衆が署内に侵入し、それが不法占拠の状態に発展し、二、三百名ないし三、四百名の群衆の大多数が署内で労働歌を怒号し、赤旗を振り、棍棒で床を突鳴らし足で踏鳴らしてその拍子をとり、署外の群衆と相呼応していわゆる交渉支援の態度に出で幹部が交渉報告、激励演説をなすやそれを聞いた群衆は拍手喝采し、幹部が署玄関柱に大赤旗二本を交叉掲揚して人民警察を叫ぶや、署内外の群衆の大多数はこれを認容し、幹部の指揮により暴力団や応援警察官に備えて棍棒等を持つた数十名の見張り警備隊が市内各要所に配置されるや他の群衆の大多数はこれを認容し、その間署内において少数者により随時随所に暴行脅迫がなされ、数十名により留置場の被疑者奪還が行われ、右の状況で代表幹部は群衆を長時間署内に滞留させたものであつて、少くとも赤旗を交叉掲揚した時から代表幹部中に同署を不法占拠する意思があり、他の群衆の大多数はこれに同調し又は不法占拠の状態にあることを認識しながらこれを認容したものであること、右随時随所になされた暴行脅迫及び留置場の被疑者奪還の暴行等の所為に出たものはいずれも多衆の威力を恃んでなしたものであり、少数者により随時行われた暴行脅迫については代表幹部を含む群衆の大多数がこれを認容し、留置場の被疑者奪還については留置場内に押入つた十数名に共同意思のあるのはもとより、留置場前に押しよせた数十名にもこれに同調する共同意思があるばかりでなく、署長室における代表幹部等もこれを認容していたこと、以上の各事実が肯認されるのであり、署前における暴行等の所為、署前の乱闘の結果を背景に更に多衆の不法な威力を恃んでの交渉、同署に対する不法占拠、署内における随時随所の暴行脅迫の所為、及び留置場の被疑者奪還の所為には、その間に共同意思の継続或は連絡がないとはいえないのである。
五 論旨は、署前における群衆の激烈な暴行により署員一〇余名の重軽傷者を出して制圧され、警備能力を失い、それに引続いて群衆は署内に侵入して、暴行脅迫の限りを尽して約八時間に亘り同署を不法占拠し、剰え留置場を破壊して被疑者を奪還する等して、警察機能を喪失せしめていること自体、警察の治安保持という特殊性からみて、一地方の静謐を害すべき危険性を発生せしめたこと当然である旨主張する。
原判決は、署前における右暴行等の所為と、署内における少数者による暴行脅迫の所為と、留置場における暴行等の所為とは、別個の法律判断に服すべきものであり、署前の暴行は共同暴行の意思ある者は四〇名前後であるが、一時の昂奮に出た偶発的なもので、僅か数分でやみ規模も小さいこと等に徴しその状況程度も自ら窺われ、未だ以て多衆による該地方の静謐を害する危険性がある程度の暴行がなされたものとは認め難く、署内における前記少数者による暴行、或は留置場内に押入つた十数名には共同暴行の意思が推認されるが、これを以ては何れも多衆と認めることは困難であると共にその暴行等の程度も該地方の静謐を害するに足る程度のものとは認め難い旨判断している。
ところで、署前における暴行と署内における各暴行等は共同意思の継続或は連絡がなくはないのであつて、それは一個の法律判断に服すべきものであること、署前の衝突については現実に暴行した四、五十名のみでなく約一〇〇名の群衆の大多数に共同意思が認められ、署内における少数者の行つた暴行脅迫等も他の二、三百名の群衆の大多数にこれを認容する共同意思が認められ、留置場の被疑者奪還も、留置場内に押入つた十数名に共同意思のあるのはもとより、留置場前に押しかけた少くとも四、五十名の群衆にもこれに同調する共同意思があり、署長室における代表幹部等もこれを認容する共同意思の認められることは、既に前段で説明したとおりである。そして、署前の衝突で署員一〇名は加療一週間ないし三週間を要する傷害を負わせられ、この一撃で他の署員は全く圧倒され、次いで二、三百名ないし三、四百名の群衆による不法占拠状態となつて六時間余継続して、玄関柱には大赤旗を交叉掲揚して人民警察を叫び、市内各要所に棒、石等を携えた群衆の見張り警備隊を配置して自動車等を検問し、剰え留置場を破壊して被疑者を奪還し、市署の警察機能は殆んど喪失して、さきには国警県本部に応援警察官の派遣を要請し、夜半には消防団約二〇〇名を以て市内の治安維持をはかり、翌早朝までに県内はもとより仙台、栃木、茨城、埼玉等から三〇〇余名の応援警察官が到着して警備についたものであることも、既に前段で説明したところである。代表である被告人熊田豊次もその検察官に対する供述調書(統証二冊三二八丁)で、「午後四時半頃鈴木光雄、金明福等地区委の代表が来た頃から群衆が次第に署内に入り込み、警察としての機能を失いかけており、掲示板問題が落着した頃は警察としての機能を失つていた」旨述べており、福島民友記者である原審公判証人後藤一六(統公二〇冊一六〇丁)は「お巡りさんが去勢されたような状況下」と証言しており、公安委員長である原審公判証人山崎与三郎(統公二四冊一〇〇丁)は、「署員は殆んど軟禁状態で動けない有様であつて、一時ではあるが無警察状態となり、公安委員長として責任を感じた」旨証言しているのである。国警平地区警察署はあつても、原審公判証人橋本岩夫(統公六冊二一三丁、二一四丁)、当審証人柴田義房(控証四冊二〇八丁乃至二一四丁、二一八丁裏、二二二丁裏)の各証言によれば、橋本平地区署長は二、三十名の応援警察官を出しても騒擾を大きくして警察官に犠牲者を出すだけであると考えて、本田市署長と合意的に応援警察官を出さないことにしたもので、平地区警察署としては群衆の別動隊や隣接する朝連浜通支部等を顧慮して自署の警備に手一杯だつたことが認められる。以上に徴すれば、右多衆の暴行脅迫は平市署を中心とする一地方の静謐を害する危険性を発生せしめたことは明白である。なお、前段で説明した諸状況に照し、署前の衝突乱闘、これを背景とした不法占拠状態、その不法占拠状態中に行われた留置場の破壊被疑者奪還騒ぎのいずれをとつても、それは多衆であると共にその暴行脅迫は一地方の公安を害する危険性を帯びるに至る程度になつたものと認められる。
叙上説明の次第であつて、原判決には平市署における騒擾の成否に関し共同意思の存在等の点において事実の誤認があり、その誤認は後段説明の被告人の共同意思等に関する事実誤認と相俟つて、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はこの点において破棄を免れない。論旨は理由がある。
その六 控訴趣意第三点中被告人に関する主張について
次に掲げる証拠並に事実によれば、
(一) 被告人は日共石城地区委員会委員長で前段認定の如く本件掲示板問題が起つた当初から、これに関与し、特に六月二七日以降党側の主な代表者として右問題に関し平市署側と交渉に当つて来た者で、同月二九日本田署長が三〇日午後四時までに掲示板を撤去すべき旨通告するや、被告人は同日午後平市署に赴き本田署長に対し右通告の不当を難じその撤回を強く要求して拒否されるや同署長に「署長がそのような主張を強行するなら吾々の方の若い者が相当いきり立つているからこの問題から生ずる一切の出来事については署長が全責任を負うべきだ」との趣旨の言辞を弄した(原審証人本田正治、同伊藤徳雄の各供述記載、被告人の検察官調書)。
(二) 被告人は同月二九日夜地区委事務所二階において、金明福、清野常雄ら数名の同志と会合し、多数の党員等を動員しこの威力を以て右掲示板撤去命令の撤回を要求する、そのため先ず湯本町署内郷町署に対し平市署に応援警察官を派遣しないよう申し入れてこれを牽制することを協議決定し、小名浜、植田、湯本、内郷等各方面に連絡員を派遣し地区委の右決定の趣旨を伝達し同志の糾合を図つた(前段認定の地区委事務所での会合の事実、及び小松シメ子の八月三日附検察官調書)。
(三) 被告人は同月三〇日午前と午後の二回に亘り、金明福らとともに平署に赴き重ねて掲示板撤去命令の撤回を強く要求した後、午後一時半ころ平市内朝連浜通支部事務所に到り同所において金逢琴らと協議して、平市署に赴いた際の群衆の統制をはかるためその責任者を選定し又掲示板問題についての交渉員を選出し、同事務所前に集結した多数の党員、労組員、朝鮮人らに対し掲示板問題について平市署に押しかけ団体交渉をする旨その他の演説をした(前段認定の朝連事務所での協議の事実、並びに朴重根の七月二八日附及び八月一〇日附、角田保雄の七月二二日附各検察官調書、前示本田証言記載)。
(四) 同日午後三時三〇分過ころ、平市署前において先着の群衆と警察官とが衝突した旨の連絡を受け、同四時ころ金逢琴ら数名とともに平市署前にかけつけ群衆の代表者の一人として掲示板撤去問題の交渉に当るため同署内に立入り、すでに前示署前の衝突直後交渉のため署長室に入つていた群衆の代表者日野定利ら五名に加わり被告人の首唱で交渉を開始し被告人が主代表となり、他の代表者数名は被告人を補佐する方法により、そのころから午後一一時過ころまでの間、前段認定の如く、署長室、同署二階刑事室等において前示群衆の暴行により畏怖する本田署長及び平市公安委員長山崎与三郎らに対し、署内外の多数の群衆の不法な威力を示し同人らをして応待のいかんではこの力によりいかなる危害を受けるかもしれぬと恐れさせ、掲示板撤去命令の撤回及び署長の引責辞職と罷免、負傷者に対する慰藉料の支払等並びに留置人の釈放を要求し、その間、署内外の群衆はその事情を知つて交渉を支援するものであることを察知し且つ群衆と未必的共同暴行脅迫の意思を持ちながら、右の交渉に当り、ことに右留置人の釈放要求即ち午後八時半ころ群衆の一人利川鎮吾が署前における衝突の際、建造物侵入罪により逮捕せられ同署監房内に留置中のことを知るや、前段認定の如く多衆の不法な威力を背景に代表者らは一斉に本田署長に対しその措置の不当を強く難詰し相手方をして前記の如く恐れさせる気勢を示して即時釈放を要求し同署長を脅迫したが、被告人はこれら代表者と意思を通じ色をなして同署長に鋭くつめよりその措置の不当を難じた(被告人の第五回検察官調書、金明福、金逢琴、矢吹大一郎、山崎与三郎の各同上調書、原審証人西岡慶三郎、同道向久右エ門、同伊藤徳雄、同本田正治、同橋本岩夫、同矢吹大一郎、同山崎与三郎の各供述記載、及び前段認定の署長室等における交渉状況の事実)。
(五) 被告人はその間
(1) 午後五時半ころ署長室の窓外その他署前の群衆から同室内の幹部に雨が降るから入れろとの要求があつたので、入つてよい旨連絡員に伝えた結果朴重根らが署前の群衆に連絡し、群衆中一〇〇名位が女を先頭にして一斉に署内に立入るに至つた(被告人の前記第五回供述調書、同人の原審供述記載及び前段認定の連絡員に指示して群衆を入署させた事実)。
(2) 午後一〇時過ころ伊藤次席が二階で被告人に会い群衆の引揚方を求めたところ、被告人は「警察では応援警官を動員しているので群衆を帰えすと直ちに自分らが逮捕されるから引揚げさせられない」旨答えた(伊藤徳雄の前記供述記載)。
(3) 午後一一時三〇分ころ署内に立入つていた群衆を同署玄関前に集合せしめ解散引揚方を命じた(原審証人東務の供述記載、被告人の前記供述調書、朴重根の七月一六日附、大井川孝平の七月七日附、西原新七の七月三〇日附各検察官調書)、
以上の各事実が認められる。
そして右認定の事実関係及びこれを認めた諸証拠に、午後四時ころの署前の状況及び午後五時半ころ署玄関前に赤旗が交叉して立てられたころの署内の状況に関する前段認定の各事実、群衆を退去せしめるようにとの署長の再三に亘る要求を無視した前示事実並びに前示署前における群衆の暴行の事実を合わせ考えると、被告人は急を聞いて午後四時ころ平市署前に到つた直後に、群衆の代表者が署内に入つていて前示群衆の暴行により畏怖する本田署長ら警察側に対し、署前の群衆の不法な威力を示すことにより同人らをして応待のいかんではこの力によりいかなる危害が及ぶも測られないと恐れさせて交渉すること、及び群衆は右交渉を支援することにより代表者と右脅迫行為を共にすることを察知し、且つ代表者を含む群衆と未必的共同暴行脅迫の意思を持ちながら群衆の代表者の一人として他の代表者とともに右交渉に当るため同署内に立入り、署長室等において前記(四)の如く、被告人の首唱で交渉を開始し、被告人が主として発言し他の代表者はこれを補足する方法により、本田署長らを脅迫して掲示板問題等に関する交渉をなし、前記の如く他の代表者ともども本田署長に迫つて利川鎮吾の釈放を強要脅迫し、その間前記(五)の如き各所為に出で、更に午後五時半ころからは被告人が連絡員に指示して署内に立入らしめた群衆を含め多数の群衆が雨を避けながら右交渉を支援するため署内に立入り同署を不法に占拠するのを知りながら、これを放置し、本田署長の再三に亘る群衆を退去せしめるようにとの要求を無視するとともに、解散まで署内に滞留したことを肯認するに足り、被告人の右所為は本件騒擾において未だ所論の如く首魁と認めるには足りないけれども、他人を指揮した場合に該当するといい得るとともに、利川鎮吾の釈放要求の点において職務強要罪を構成するといわなければならない。
もつとも原審引用の大野友春の証人尋問調書中には、本田署長らを約八〇名の群衆がとりかこみ“馬鹿野郎、表に出して殴つてしまえ”と叫ぶ者があり、被告人ら代表者が極力これを制止していたようであつた旨の供述記載があるが、既に群衆により署員等が圧倒された後に数時間に亘る本件交渉の或る一時期においてかかる或る一部所為を制止する如きことがあつても、その交渉の全過程における被告人の言動に鑑みこれがため被告人の前記方法による共同脅迫等の意思を否定し得ない。のみならず被告人らがかかる制止行為に出たのは、群衆の右の如き言辞により喧騒し交渉が妨害されるのを防止する意味でこれを制止するということも考えられなくはなく、必ずしも脅迫的言辞なるが故に制止したとも言い切れないのである。又、群衆の一人金竜洙が矢吹公安委員を脅迫した際、被告人ら代表者もこれを制止したことは原審引用の当該証拠により認められなくはないが、この場合は金竜洙が火箸を振り上げ殺すと叫びなががら真実同人の生命に危害を加えかねない態度を以て矢吹に迫つたという如き重大で緊迫した場合であつたからこそであるばかりでなく、伊藤次席が金から火箸を取り上げ阻止した後にこれをなだめ制止したという関係であるに過ぎないのであるから、これまた被告人の共同脅迫等の意思を認めることの妨げとならない。又、群衆が記者の写真撮影を妨害するのを幹部の者が制止した(原審公判調書中後藤一六の証言記載)のは新聞記者なるがためで、警察職員の写真撮影の場合は妨害を受けているのである。村上俊雄が暴力団来襲の報があつて立騒ぐ群衆に向い「暴力を慎め」と呼びかけた如き右後藤一六の供述記載については、村上は「どんな障碍があつても勝手に手を出すな」と言つたのを同証人が右のように解したというのであるし、村上がその直後に多数の群衆をもつて警備隊を編成し、棒を携え見張に当らせていることに徴しても、右の供述記載は措信し得ない。代表者の一人日野定利が午後四時ころ署玄関前において署前の群衆に対し「暴力に来たのでない、掲示板問題で来たのだ」と演説したこと(前記公判調書中証人鈴木信昌の供述記載、同人の検察官に対する供述調書)は認められ、これは、群衆の集合は群衆が暴力を揮うためのものでなく、あくまで、掲示板問題を解決するためのものであることを訴え、徒らに暴力的行動に出るのを制止した趣旨と解せられるが、これとてすでに署前の群衆の暴行により畏怖し圧倒された警察側と交渉するには、群衆の不法な威力を示しこの力により相手方を恐れしめることで足りるとしこれ以外に積極的な暴力的行動を否定したに過ぎないと解せられなくはない。更に交渉の行われた署長室に数名の新聞記者が在室し記事を取材していた事実(原審引用の当該証拠)、被告人自身の言動が概ね穏健であつた事実(同上)、はいずれも前記の如き方法による被告人の脅迫意思等を認めることを妨げない。
されば騒擾及職務強要の公訴事実につき無罪とした原判決は事実の認定を誤つたもので、この誤りは判決に影響することは明らかであるので、原判決はこの点において破棄を免れない。論旨は結局理由がある。
第三破棄自判
以上説明のとおり検察官の本件控訴は理由あるので、刑訴法第三九七条一項第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により当裁判所において改めて次のとおり判決する。
一 事実
(本件事件発生の経緯)
1 昭和二四年四月一三日附書面を以て平市大町一八番地長江久雄から同人名義で、平市警察署長に対し、「一、目的、宣伝活動、二、方法、道路使用壁新聞、三、期間、同年四月一日から同年七月二〇日まで、四、場所、平市田町国鉄貨物扱所前平東宝街頭ポスター右側、幅一尺長さ一間半」の道路一時使用許可願が提出され、四月一五日右は許可された。ところが、右道路上には、横に「日本共産党石城地区委員会」と書かれた幅八尺、高さ一間余の掲示板が設置され、同市大町一八番地に事務所を有する同地区委員会において石城地方における時事問題をとりあげて報道したため、地方の人々の関心をひき道路上においてそれを見る人が次第に多くなり、特に同年六月初め頃から当時問題となつた内郷町所在の矢郷炭礦の争議をめぐる記事や市署を含む官公署のばくろ記事等を大書して目立つように報道したため、朝夕のラツシユアワー等には相当な人だかりがあるようになつた。
2 右矢郷炭礦の争議とは、磐城神奈川炭礦株式会社が経営し、矢郷倉蔵がその礦業所長の地位にあつたが、炭礦において経営不振のため同年三月中旬以降同会社は同炭礦労働組合側と経営再建の協議を重ねたが成案を得なかつたので、同年五月末同組合の戦闘的幹部を含めた従業員約一二〇名を馘首したことから同組合が闘争に立上つたもので、折柄前年末発せられたいわゆる経済九原則及びその具体化としてのいわゆるドツジラインに基き企業合理化政策が強力に推進されることになつた影響として、常磐地方の各炭礦、工場等でも企業の合理化から従業員の馘首がなされようとする傾向にあつたため、労働者も経営者もその成行に深い関心を持ち、特に矢郷炭礦の従業員が生活の窮乏に耐えながら争議を続けたので、県内外の労働者の支持をうけた。所轄警察署はこの争議に伴い不祥事態の派生することを惧れ、警備係巡査部長古口定吉をして絶えずその状態を視察させ、情報の蒐集に努めていた。即ち、矢郷炭礦労働組合員は被解雇者の家族のため内郷町役場に出かけて主食の掛売りを要請し、そのため同年六月三日の臨時町議会でこの問題が審議されたが、そのいずれの際も内郷町警察署から古口部長等数名の警察官が派遣され、又同月八日前記会社は福島地方裁判所平支部に対し、被解雇者中解雇を受諾しない者七〇名が礦業所内に立入ることを禁止する旨の仮処分の申請をなし、即日その命令を得て、翌九日午後その執行をなしたが、内郷町警察署長は古口部長の情報に基き、この執行に当り会社側と従業員との間に紛争その他事故の起る虞あるものと判断し、平地区警察署、平市警察署、湯本町警察署に対し応援警察官の派遣を求め、九日朝約五〇名の警察官を矢郷炭礦に派遣し、各坑口その他に配置し、その後同月二五日にも、警備のため警察官約二〇名を同炭礦に派遣したことがあつた。かかる内郷町措置、殊に仮処分執行の際の措置に対して、矢郷炭礦労組員中共産党員を中心としこの争議に深い関心を有する者達や附近諸炭礦労組の主として共産党員等は、内郷町警察署が争議に不当に干渉し労働者を弾圧するものであるとして強い反感を懐き、前記地区委幹部を通じて同署長に対し抗議をなしたこともあり、特に同署警備係古口部長に対しては個人的にも悪感情を持つに至つた。斯様なわけで、右矢郷炭礦労組員は争議に関する事情を広く世人に訴えその支持を得る方法として、地区委に連絡して前記平駅前の掲示板を利用することとし、同地区委において主として委員長鈴木光雄がその記事を掲載したのである。
3 平市警察署は同年六月初旬頃この掲示板前の道路上に集る人だかりが目立つようになつてからこれに関心を払つていたが、時には交通整理をするようなこともあつたので、同月二五日に同警察署長本田正治は、許可当時予想した以上の人だかりで右の掲示板が存在することは道路交通上支障ありと認め、部下をして同日朝前記地区委事務所に赴かせ、出願名義人長江久雄不在のため居合わせた党員清野常雄に対し、口頭を以て、交通上支障があるから先になした許可を取消す旨及び速かに右掲示板を撤去すべき旨の通告の伝達方を依頼したが、拒絶されたので、更に同日午後文書を以て長江の住居に赴かせて同人に対し同様の通告をした。これに対し地区委では委員長鈴木光雄等が来署して、右許可取消は理由がなく共産党の政治活動を弾圧するもので応じられない旨抗議し、なお右長江宛の許可取消通知書を投返したため、本田署長は同日午後五時頃共産党員であり在日朝鮮人連盟浜通支部の幹部である金明福を招致してその斡旋方を依頼した。
4 しかるに、その後金明福又は地区委から何等の応答なく、情勢の進展をみないので、本田市署長は同月二七日正午頃柳田警部補をして前記地区委事務所に赴かせ、委員長鈴木光雄等に対し、長江久雄宛の代執行令書を以て、右掲示板を撤去しないときは同日同日午後五時警察側で代執行する旨通告したが、右令書はその場で突返された。同日午後三時頃(その頃党員松木佐吉、岡田馨が平地区署を訪ねて事情を述べた)同地区委委員長鈴木光雄及び地区委員鈴木磐夫が平市署に来て、右は共産党の政治活動に対する弾圧であると抗議し、間もなく数名来署して取消の撤回を要求中、約七、八十名の共産党員、その影響下の労組員、朝連関係者が赤旗を立てて同署に押しかけ、労働歌を歌つて気勢をあげ、内約三、四十名は署長室に押入り、盛んに野次をとばしたりするので、本田署長は代表者を五名、立会人を三名に制限し、その他の者を室外に退去させたものの又又十数名も入つてきた状態で、更に群衆が増してくる署内外の情勢から湯本、内郷両町署に応援警察の派遣方を求めたが、交渉の終り近い頃来署した応援警察官を、代表を含む群衆が追返したほどであつた。しかし、ともかく交渉を続けた結果、同日午後七時頃、地区委側は掲示板が何もないよりは交通の支障になることを認める、市署当局は共産党の政治活動を妨害しない、速かに同じような宣伝価値のある適当な場所を見つけて移転することとし、それまでは現状のままとする、移転場所については後日あらためて協議する、という趣旨のことで、右交渉は妥結をみるに至つた。
5 右群衆中鈴木磐夫、熊田豊次等約五、六十名は同日午後八時頃内郷町警察署に押しかけ、殆んど全員署内に押入り、約三〇分間に亘り、「他署に応援警察官を出すな」「争議を弾圧したのは不都合だ」と抗議し、翌二八日午後三時半頃鈴木光雄が指揮して村上俊雄、金明福等共産党員、その影響下の労組員、朝連関係者約百五、六十名は赤旗を立てて湯本町警察署に押しかけ、そのうちの約三〇名は署内に押入り、署長に対し「平市署、内郷町署に何故応援警察官を出したか理由を回答せよ」「警察が労働争議に関係するのは不当弾圧だ」と抗議し、更に鈴木光雄は署長に対し「表に出て回答しろ」と迫り、玄関前に出た同署長の身辺を群衆と共にスクラムを組んで取囲み、罵声を浴びせかけながら同署長を小突き廻し或は蹴る等の所為をして午後六時過ぎに引揚げた。
6 本田平市署長は二八日に地区委代表と掲示板移転問題の移転場所、時期につき話合おうとしたが右の事情でできなかつたので、翌二九日午前一〇時頃地区委代表者の来署を求め、来署した鈴木光雄、金明福の両名と掲示板の移転場所につき相談し、更に右両名及び同署次席伊藤徳雄が現地について調査した結果、平駅前住吉屋支店の県道に面する空地が移転場所として適当と考え右両名が同支店主人酒井清一とその借用方を交渉し、明朝その返事が得られることになつた。伊藤次席はその直後来署した酒井と面談し、同人が善処するといい、右空地を貸与する意向に大体間違いないと察知したので、署長に対しその旨復命し、同日正午頃経過報告に来た金明福も大体借りられそうだという話をした。そこで本田署長は七、八分通り間違いなく土地が借りられるものとの見通しを立て、掲示板の移転は簡単にできるし、交通に支障があるので一刻も早く移転させる必要があると考え、これを促進するために、金明福に対し、大体借りられることに間違いないから明三〇日午後四時までに前記掲示板を撤去するように命じ、若し撤去しないときは警察側で強制撤去するという趣旨のことを告げたところ、金明福は場所が見付かつたのだから期限はいわない方がよくはないかと抗議したが、容れられず立去つた。更に、午後一時頃これを聞いて協定の一方的破棄、共産党に対する弾圧として憤慨した鈴木光雄が、平地区警察署に橋本署長を訪ねて、本田市署長を表に立てて後押しているのではないかと抗議してから、平市警察署に赴き、本田市署長に対し、右の命令は先の協定に違背する不当なものだ、共産党に対する弾圧だと強硬に抗議し、右命令の撤回を強く求めたが、本田署長は前記撤去を命じた事情を説明し、なお右の期限を固執せねばいつまで経つても移転しない状態にあるものと判断し、警察の威信を確立するという気持も手伝つて、これに応じなかつた。鈴木光雄は午後三時頃「署長がそのような一方的強圧態度に出て無茶な意見を主張するならば、われわれの方でも若い者がいる。この問題で何事が起きても、署長が責任を負うべきだ」という趣旨の言辞を残して立去つた。
7 同日夕刻本田署長は、特に二七日以降の緊迫した情勢と、強制撤去する場合のことを考え、湯本町警察署において同町署長、内郷町署長、平地区警察署長とこれが対策を協議したが、両町警察署とも炭礦争議の問題があり、当時の福島県内における情勢と警備態勢に鑑み、多数の応援警察官を得ることは困難だから、この際共産党側を刺戟せず努めて事を円満に運ぶことに協議決定した。
8 他方、地区委員長鈴木光雄は同日夜九時近い頃駅前住吉屋支店酒井清一を訪ねて、警察の撤去命令を告げて土地を貸して貰いたいと話したところ、親戚と相談するから明朝まで待つて貰いたいと言われて帰つたが、その際市署からはこの問題につき何等電話もなかつたことを聞き、市署側には問題円満解決の誠意がないと考えた。帰つて、九時過頃から地区委事務所において鈴木光雄、村上俊雄、金明福、長江久雄、榊原光治、高萩良一、清野常雄、草野直子、小松シメ子等が会合し、対策を協議した結果、本田署長のやり方は共産党を弾圧する不信不当な行為だから、明三〇日多数の党員、その影響下の労組員、朝連関係者等の同志を動員して平市署に押しかけ、圧力をかけて厳重抗議し、あくまで明日午後四時までの撤去命令を取消させて、場所が見付かるまでそのままにしておくようにする、この問題は重要だから下部組織に通達連絡し、各群委員会の党員は明日午後三時までに集合することとし、その連絡にはそこに居た人達が各方部別に受持つこと等の打合せ決定がなされた。
9 右決定に基き、翌三〇日早朝から小名浜町方部、植田町方部、古河好間炭礦方部、湯本町方部等に連絡がなされ、前記の事情で不信不当の平市署に圧力をかけるのだからできるだけ多数の同志を集めるよう伝えられた。また、元湯本町署の掲示板に「弾圧をやめよ。でたらめな警察をたたきつぶし、民族の独立のために闘う、諸君行け、平市署へ、午後三時平駅前集合」、常磐炭礦磐崎通勤区事務所前の同会社掲示板に「言論の自由のために戦う。本日平地区共産党は生命かけて言論の自由のために戦う。湯本町警察署前と平市警察署前及び内郷町警察署前において、各所午前一〇時より」、平市田町の電柱数個所に「警察を葬れ」、古河好間炭礦礦業所向いの塀に「昨日警察は態度をかえて強硬に掲示板撤去を申入れて来た、これは労働者への明かな挑戦である、これに対し共産党は人民の先頭に立ち本三〇日午後四時を期して自治警察署に対し一大抗議デモを行う。皆さんの御援助をお願いする」等のビラが日本共産党各細胞の名で掲示された。
10 同日午前六時頃から同十時頃までの間、前記の協議決定に基き、村上俊雄、清野常雄は朝連湯本分会委員長朴重根等党員の糾合を図り、朝連湯本分会事務所に集合して、多数同志を動員して平市署に押しかけるに先だち、湯本町警察署に圧力をかけて平市警察署に対する応援警察官の派遣を阻止することを協議した上、午前一〇時半頃湯本町方面の共産党員、その影響下にある労組員、朝連関係者約百数十名は赤旗を立てて湯本町警察署に押しかけ、労働歌を合唱する一方、そのうち村上俊雄、朴重根、清野常雄等約二〇名は署内に押入つて署長に面会を求め、その代理として応待した巡査部長渡辺清憲に対し、朴重根が主となつて「今日平に応援に行くか行かないか、他所に応援警察官を派遣するな、表に皆が集つているから表に出て回答しろ」「此奴を表にかつぎ出せ」等と罵声を浴びせ、或は赤旗の竿で床を突鳴らしながら回答を求め、その間署外の群衆も署長室等の窓際に鈴なりになつて「表へ出ろ、表へ出せ」と言つて大声をあげ、その気勢のため署前に立出た同部長をスクラムを組んで取巻き、同部長が朴にスクラムを解いてくれと言つてこれを解かしたが、幹部が「なぜ回答しないんだ、そんな野郎は即時追放してしまえ」というと、群衆は「そのとおりだ、はつきりしろ」と呼応し、同部長から「現在は応援に行つていない、又これから行くこともない」旨の言明を得て、午後零時半頃同署を立去つた。村上俊雄等数十名は折柄通りかかつたトラツクに停車を命じこれに押乗つて平市に向つたが、午後零時半過頃から午後三時半頃までの間、右湯本町警察署から平市に廻つた者を中心とする党員、その影響下にある労組員、朝連関係者約百数十名は、平市一五丁目所在の在日朝鮮人連盟浜通支部事務所(平地区警察署に隣接する)に集合し、その間鈴木光雄、村上俊雄、朴重根等幹部二〇余名は同事務所二階において協議し、平市署に押しかけた際の群衆の統制をとるための責任者を定め、スパイ活動を防ぎ見張を兼ねて警備する適当な人数を各細胞から選定するなどし、赤旗十数本を整え、群衆は幹部の激励に応じて労働歌を合唱して気勢をあげながら待機の姿をとつていた。
11 また、同日午前八時頃から午後一時頃までの間、前記地区委の連絡に基き、内郷町所在の同町細胞委員会委員長日野定利方において、同人をはじめ鈴木磐夫、熊田豊次、松木佐吉、佐々木贇等同方面の党員約二〇名が集合して、平市警察署に押しかける前に内郷町警察署に圧力をかけて平市警察署に対する応援警察官の派遣を阻止すること、掲示板問題の交渉は決裂することが予想されるから、全党員とできるだけ多くの団体を動員してその圧力であくまでねばつて交渉を有利にすること等が協議決定された。常磐炭砿労組内郷支部員、寿炭砿労組員、矢郷炭砿労組員等への連絡動員が行われ、不信不当の平市警察署に圧力をかけるため支援されたいと要請された。同日午後二時過頃、右会合の協議決定に基き、内郷町方面の共産党員、その影響下にある矢郷炭砿労組等の労組員、朝連関係者を含む約百四、五十名は赤旗を立てて内郷町警察署へ押しかけ、日野定利、鈴木磐夫、熊田豊次、松木佐吉、八代一郎、坂本津奈子等約二、三十名は赤旗を持つて署内に押入り、署長室で同署長塩谷重蔵に対し「今日署員を集めたのはどういう訳か、平に応援を出すためだろう、応援を出さないと約束しろ」「どうして労働者を弾圧するのか」と迫り、同署長が「今のところ応援を出す考はない」と答えたところ、「署長は前にも約束を破つたから一筆書いて貰つたらどうか」という声があつたため、更に同署長に対し交々「口約束だけでは駄目だ、一札書け」「どうしても書けないのか、書け、書けないなら武装解除するから拳銃と警棒を此処に集めろ」「書けぬなら署長をやめろ、ギロチンだ」等と怒号し、署長室東側南側の各窓は開け放たれ、そこから見ている署外の群衆の一団の中からこれに呼応して罵声を浴びせ、事務室に押入つた数十名の中からは「ぐずぐずしているなら叩き込め」等と呼応し、署長室内では拳で卓子を叩くなどして執拗に誓約書を書くことを強要した。その際八代一郎等数名の者は同署の会議室に居つた前記巡査部長古口定吉を署長室に連行し、同人の従来の言動について難詰した上、更に同人を同署玄関前広場に引出し、署前の群衆もこれに加つて約三、四十名が同部長を取囲み、鈴木磐夫は「この野郎、袋叩きにしろ、革命の時銃口を突付けるのはこの野郎だ、鶴嘴で頭を叩き割つてしまえ」と怒号し、他の者は「労働者を弾圧した悪い野郎だ、労働者に謝れ」と叫び、同部長の胸倉を取り突飛ばし、或は蹴る等の暴行を加えながら、三、四十分間も引きずり廻して矢郷炭砿争議の際の犠牲者に対する謝罪を要求し、巡査中塚四雄がこの状況を同署の二階から写真に撮影したことから、日野定利等二、三十名の者は同二階に押上り、「写真を寄越せ、フイルムを寄越せ」と怒鳴りながら同巡査を取囲み、同巡査を押飛ばし或は蹴りつける等の暴行をなして、同巡査の左下腿部に全治一〇日を要する傷害を与え、又階下暗室で巡査部長三瓶良助からフイルムを奪取する等の暴行をなした上、午後三時直前時計を見ながら同署を立去つて平市警察署に向つた。
12 一方、同日午前八時半頃本田平市警察署長は全署員に対し、本日掲示板撤去問題に関し多数のデモ隊が押しよせて来ることが予想されるから代表者三名以外の者の入署を許さぬよう警備すること、但しこれらの者に対しては挑発的刺戟的態度を執つてはならない旨を訓示し、伊藤次席に命じて約三十六、七名の実動人員を三班に分けて玄関口、裏口、連絡署内警備の警備部署を定めて待機を命じた。地区委では午後九時頃金明福が住吉屋支店へ土地を貸して貰えるかどうか尋ねに行つたが、個人的に相談する人があるからもう一寸待つてくれるよう言われて帰り、午前一〇時頃鈴木光雄、金明福、西岡慶三郎が平市警察に赴き、本田署長に対し「移転期限を一方的に本日午後四時としたことは協定違反で不当弾圧だから取消せ、署長は小さな問題と思うかも知れないが、共産党としては百歩も二百歩も後退する大問題だ」と強硬に抗議したが、容れられず立去つた。更に、午後一時頃右三名が再び来署して署長に対し交々「弾圧だ、一方的移転命令を取消せ」と迫り、署長から住吉屋の土地が借りられるか何うかが先決問題だと答え、そのうち、午後一時半頃鈴木光雄は署から立去つた。その立ち去つた後、さきに金明福等の要求に基く市警察署からの電話要請で来署した公安委員長山崎与三郎及び同委員猪狩庄平は金明福等に対し「署長も困つているようだから早く別の所へ移転して貰いたい、聞けば住吉屋の土地が貸してもよいことになつているそうでないか」というと、金明福等は「一週間待つてくれ」「三日待つてくれ」というので、同公安委員長等は「あとは署長等と話合つて貰いたい」と述べて、三〇分ほどで辞去した。午後二時過頃税務署にいる酒井清一のところへ市警察署にいる共産党の者からとして電話がかかり、土地を貸して貰えるかときくので、「貸す意向だ」と答えたが、その頃署長室から電話室に行つて間もなく戻つて来た金明福が、借りられるようになつたというので、署長が、「それはよかつた、早速移転の方法を講じてくれ」と促すと、金明福は「いや、署長、借りる借りないはわれわれの勝手だ、それより午後四時までに撤去しろという一方的命令を取消せ」と言出し、署長はこれを拒否し、押問答を繰返した。最後に金明福は「どうしても一方的に午後四時説を主張するのでは、署長、腹を決めたか、警察も動員したら何うだ、われわれの方も若い者を集めるから一喧嘩しよう、その時は次席も勇ましい働きをするだろうなあ」と放言し、帰り際近くなつてから「署長が一週間延ばすことを承諾するなら僕が責任をもつて委員会に話してみよう」と言出したが、署長に拒否されて午後三時頃退去した。
(騒擾)
1 同日午後三時直前、前記の如く内郷町警察署を立去つた共産党員、労組員等の群衆中男女約四、五十名は同署前を通りかかつたトラツクに押乗つて平市警察署に向い、平市長橋町附近で下車し、赤旗を先頭に四列縦隊で途中労働歌を合唱しながら、田町大貞料理店前を経て午後三時三〇分頃同市警察署前に到着し、本田署長の管理する同署の玄関前に円陣を作つて、赤旗を振りスクラムを組み労働歌を合唱して気勢をあげ、そのうちの日野定利等七、八名の者は玄関口に押しかけ、ドアの内側にいる部下約一〇名と共に玄関口を警備していて玄関に出た金田警部補に対し「署長に会わせろ」と要求し、同警部補から「交渉があるなら代表三名にしてくれ」と制止され、「そんな馬鹿なことがあるか、何人でも通せ」と大声をあげて押問答をしているうち、間もなく更に田町平駅方面からトラツクに押乗つた同じく内郷町警察署に押しかけた群衆中男女約四、五十名が平市署前に到着してとび下り、先着の一団と合流し総勢約一〇〇名となるや、いきなりそのうちの二、三〇名の者がワアツと喚声をあげて同署玄関口に殺到し、「入れろ、入れろ」と多数をたのんで強いて署内に押入ろうとしたため、両手をあげて制止しようとする同警部補の背後にあつてこれを阻止しようとする署員との間に押合いとなり、群衆中には棒でかかる者もあり、署員も警棒で押しつけたりしたので、群衆中の二、三人は「やつてしまえ」と叫び、いきなり、相手を刺戟しないよう無帽無装備にしていた同警部補の頭髪を掴んで玄関前道路に引張り出して押倒し、棒で殴つたり蹴つたりするなどの暴行を加え、同警部補を救出するため部下の署員が次々にとび出したが、金田警部補が引張り出された直後に玄関西側ドアを制止もきかず強いて開けようとした群衆の一人伊藤重春を阻止すべく、その肩を叩こうとした警棒が誤つてその前頭部に当り血を見たので、群衆はますますいきり立ち、次々とび出して来る署員を取囲んで、棒、洋傘等で殴打し蹴り、その頃群衆の一人利川鎮吾が赤旗を持つて署内に侵入して逮捕され、また群衆中二、三十名の者は署員のとび出してくる玄関口その他に盛に投石しはじめ、右乱闘の間暴行したり投石したりしない他の群衆の大多数はワツシヨワツシヨと掛声を発したり赤旗を持つたり等して気勢を添えて、群衆約一〇〇名の大多数は共同暴行等の意思を持ち、右気勢の声にガラスの割れる音、物の毀れる音、喚声、怒声の入りまじる乱闘が五、六分間続いた。本田署長等が投石をおかして客溜に出ると、同署長に石が当つて帽子を飛ばされ、一時ひるんで退いたが、更に腕で顔を掩うようにして玄関口に立出で、危機を収拾するため「乱暴をやめよ、話せばわかる、代表三名と話す」と叫びかけて制止し、群衆中日野定利が「静かにしろ、これから代表を出して話合うから静かにしろ」と手を振り、群衆の騒ぎは一応おさまつて、本田署長は俯伏せに倒れている部下等を助けて署内に入つた。この乱闘で群衆側は前記一名のみ治療約一週間の創傷を受けたのであるが、市署側は金田警部補以下署員一〇名が治療一週間ないし三週間を要する挫傷、裂傷、打撲傷等を負い署長及び婦警一名が投石で腫脹の軽傷を負い、玄関のドア、欄間、警備、経済両事務室の道路に面した窓等のガラス多数が破壊されて附近に破片が散乱し、投げつけられた無数の石が署内と玄関前に散在していた。
2 署前の乱闘は一応おさまつたものの、群衆には石を手拭に包んで振廻す女達もあり、棒を振上げて「やつてしまえ」と叫ぶ男達もあり、それから「われわれにも聞かせろ、全部が代表だから皆入れろ」と叫んで騒ぎ、鈴木磐夫は「金田がいきなり警棒で俺の胸を突いたからこんなことになるのだ」と喰つてかかり、日野定利は「来た人達全部を入れて皆の声をきこうとしないからこんなことになるのだ、三人位で話になるかい」と叫んだ。それを聞きすてて本田署長は署内に入り、伊藤次席が代表五名を黙認し、続いて間もなく日野定利、鈴木磐夫、松木佐吉、熊田豊次、佐々木贇等五名が、乱闘の結果を背景に更に多衆の不法な威力を示して相手方をして応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させる気勢を示す雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容して署長室に入り、本田署長、伊藤次席、橋本地区警察署長と相対し、警察が先に手を出した、いや違うと言合い、連絡員、新聞記者等も入つて来て十数名となつたが、午後四時頃急を聞いて馳付けた鈴木光雄、金明福、金逢琴等が署長室に入り、鈴木光雄が主代表となつて、前記雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容して掲示板問題の交渉をはじめた。署前の昂奮した前記約一〇〇名の群衆の大多数は、乱闘後も前記の雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながら、これを認容すると共に、事態の発展や相手の出方如何により時と場合によつては、更に暴行脅迫等の所為に出るかも知れないとの未必的共同暴行脅迫の意思を代表幹部等と共に持ち、幹部の指示により円陣を作つてスクラムを組み赤旗を振り労働歌を高唱する等して気勢をあげて、右交渉支援の態度をとり、或は怒号し罵声をあげる者もあり、或は乱闘の際市署脇の材木置場等から拾つてきた棒(内郷から持つてきた者も二、三人ある)をそのまま持つている者が多数あるほかに、更に棒や石を拾つている一部群衆があり、或は写真を撮ろうとする新聞記者等を署員と間違えてあちこちで投石したり、私服署員を追いかけたりする者があつたが、鈴木光雄等が馳付けた直後、同志がやられたとの急報に接し朝連浜通支部事務所に待機している党員、労組員、朝連関係者等の群衆の一部約一〇〇余名が村上俊雄を先頭に赤旗を押立てて市警察署前に馳付けるや、拍手喚声でこれを迎え、なおも群衆の数は刻々増して行つた。朝連から馳付けた朴重根は署玄関石段に上つて群衆に対し「われわれも失業者だから、団結を固くして断乎闘争しよう」と激励演説を二回ほどし、他の幹部等も激励演説をした。これらの群衆の大多数は直ちにさきに乱闘した約一〇〇名の一団に合流し、棒を持つている多数同志や署前の乱闘の跡や話を見聞きし、或は幹部の激励演説を聞くうち、署前の衝突を認識して、前記の雰囲気を利用して交渉するものであることを認識しながらこれを認容すると共に、前同様の未必的共同暴行脅迫の意思を持つて、或はスクラムを組み労働歌を合唱する等して気勢をあげて、右交渉支援の態度に出た。その頃群衆中に「署内には応援警察官を一人も入れるな」と叫ぶ者があり、市署の玄関口に棒を持つた見張りを立て、更に同署附近にある野菜市場の前で群衆の幹部らしい者三人位が十五、六名に三尺位の棒を一本宛渡しているのが見られ、午後五時過頃には市内東宝劇場附近三叉路に赤旗一本を持つた七、八名の姿が見られた。
3 署内では、玄関より入つた客溜になお数名の署員が警備していたが、午後四時頃から連絡員と称して署内に侵入する群衆が次第に増し、スクラムを組んだ約二〇名が入れろと玄関口に押し寄せ、その前面の数名が三、四名の署員と押問答し、幹部が来てなだめたが、午後四時半頃には金明福が玄関口に現われ「労働者は外で雨に濡れている、警察はわれわれの税金で建てたものだ、皆構わないから中に入れ」というと、群衆はドヤドヤと数十名署内客溜に侵入し、一部は経済事務室にも入り込み、呆然たる署員はなすところなく奥に追いやられ、その後一旦大部分署外に出たが、間もなく午後五時近くには前より多数の群衆が侵入し、署長室にも二、三十名、警備、経済両事務室に計四、五十名入り込み、両事務室の群衆や客溜の二、三十名は赤旗を持込み、労働歌を合唱する等騒然とし、幹部、連絡員が中間報告や激励演説などし、その頃本田署長から幹部に対し代表以外は署長室より出てくれるよう要求したことがあつた。署長室における交渉は、室内の群衆中に棒切れや竹棒を持つた者や或はそれで床を突く者もあり、土足のまま署長の机の上にとび上る者もあり、「署長ずるい、やつてしまえ」等と叫ぶ者もあり、鈴木磐夫は「この警察が人民のものになるのは一個月そこそこだ」などといい、周辺の窓は群衆が全部開放させ、西側材木置場や板塀や南側窓辺に群がる群衆はこれに呼応して罵声を浴びせ「署長出ろ、やつてしまえ」等と叫ぶ者もあり、或は板塀を叩く者もある状況下で、午後五時頃掲示板問題は地区委が雨天の日を除いて三日の間に移転するということで妥結した。
4 ところが、鈴木光雄は、引続いて、本日斯様な事態が発生したのは署長の責任だから辞職せよ、警察官の署前の暴行で群衆中に怪我人が出たからその治療費を支払え、矢郷砿炭争議に警察官を派遣したのは労働者に対する弾圧で、その結果従業員山本某が死んだことに署長も間接的な責任があるから、その慰藉料を支払え等の要求項目を掲げて、本田署長に迫つたが、同署長はその理由のないことを説明してこれを拒否し、署長の任免権は公安委員会にある旨述べたところ、鈴木光雄は然らば今から公安委員会を開けと要求するに至つた。午後五時半近い頃である。これと前後して、署外に残つている群衆中から同志幹部に対し「雨が降つているからわれわれも中に入れろ」という声があり、鈴木光雄は署長の許可した事実がないのに署長が黙認したものとして、許可が出たから入つてよい旨連絡員に伝えたので、朴重根等が連絡すると、署前に残つていた群衆中約一〇〇余名が女子を先頭に一斉に署内に侵入し、その頃から署内に侵入した群衆は遽かに喧騒を極め、棒で床を突鳴らす者、労働歌を合唱する者、赤旗を振る者、暴言をはく者、署長をやめろと叫ぶ者、赤旗を守れと叫ぶ者等があつた。
5 午後五時半頃群衆中常磐製作所細胞キヤツプ池田秀一、朴重根等四、五名の者が「われわれは警察を占領したから赤旗を立てる」と叫び、代表日野定利が玄関に出て来て、赤旗を立ててもよいという趣旨の演説をし、市署玄関の柱に大赤旗二本を交叉して繩で結びつけた。間もなく、村上俊雄、長江久雄、島幸次郎等幹部数名が右赤旗を背景に玄関前に並んで、福島民友記者後藤一六の写真撮影に応じた。そして、玄関口に立つて「人民警察ができた」「人民政府ができた」と叫ぶものがあり、玄関前には約二〇〇名の群衆が労働歌を高唱し、或は女を含めてスクラムを組んだ一隊があつて、交叉掲揚された赤旗を見て「これで始めてわれわれの警察ができた」という意味のことを言つて得意然としていた。また、署二階正面の窓から同志の女二人が「われわれの占領した家だから居心地がよい、みんな入れ入れ」と叫び、署内客溜の群衆は「人民政府ができた」などと言つて、署内外の群衆の大多衆はこれを認容していた。(この大赤旗は午後一一時半頃群衆が引揚げる時まで掲揚されていた)
6 この頃、市署附近の野菜市場には赤旗を持つた約三〇名の同志が棍棒を持つて一団をなして警戒し、署前では前記約二〇〇名の群衆が労働歌を怒号する等気勢をあげていて、その中には二尺位の棒を持つた者が多数おり、署玄関口には四、五尺の棍棒を持つた約一〇名が見張つていて、出入者を誰何していた。署内では署長室、警備、経済両事務室、客溜等に計約二〇〇名余の群衆が一杯で、署長室と次の警備事務室だけを通じて八〇余名まで数えたが、それ以上は数えられず、或は労働歌を合唱し、赤旗を振り、或は棍棒で床を突鳴らす音、罵声怒号等騒然とし、署員は呆然とただウロウロするばかりで、署員間の連絡は殆んどとれず、口さえ満足にきけない状況で、署長室では「馬鹿野郎、表に出してぶん殴つてしまえ」と叫ぶと、署長と交渉していた代表者はこれを阻止していた様子が見えたが、警察の機能は全く果せず、名実ともに大多数の群衆の共同意思による不法占拠の状態になつており、矢吹公安委員も見えて、署長と打合わせて午後六時頃国警県本部に応援警察官の派遣方を要請した。(橋本平地区警察署長は三、四十名の応援警察官を出しても騒動を大きくして警察官に犠牲者をだすだけに過ぎないと考えて、本田市警察署長と合意的に応援警察官を出さないことにし、平地区警察署としても群衆の別動隊や隣接する朝連浜通支部のことなどを顧慮して、自署の警備に手一杯の状況だつたのである。)
7 国警県本部へ応援要請したのと前後して、午後六時頃、内郷町方面の暴力団が日本刀を持つて平市署に集つている群衆を襲撃する旨の情報を伝えた一人の女があり、代表の要求により警察側は、内郷町警察署に対してその調査方を電話連絡し、村上俊雄の下に朴重根が指揮して一班数名宛数班の警備隊を編成し、主として暴力団来襲に備えて、棍棒や石塊を携帯させて市内各要所に配置し、見張り警戒に当らせて通行人や自動車の検問を実施し、他の群衆の大多数はこれを認容していた。(その後、暴力団の来ないことが判つた以後は、殆んど専ら応援警察官に備え、夜になつてからは合言葉を使用し、更に時々統制員が警戒所を見廻つて連絡統制につとめ、地区警察署に対する見張りも出し、午後一一時半頃群衆の引揚に至るまで検問が続けられた。)
8 午後六時半頃矢吹公安委員が署長室に現われると、群衆は罵声を浴びせ、同公安委員が署長の被免は公安委員会で決めることだから公安委員長を呼んで来るといい、三〇分の約束で午後七時五分までに連れ帰ることにして出かけたが、同公安委員の乗つた自動車に小赤旗をつける悶着があつた。署内は暴力団来襲の情報で侵入する群衆の数は更に増し、署長室だけで八五名まで数えられた程であるがそれ以上は数えられず、日野定利の首唱で労働歌を合唱することとなり、鈴木光雄以下の代表幹部等をはじめ署長室、警備、経済両事務室、客溜等の署内の群衆はもとより、署外の群衆も相呼応して歌い出し、それが終ると、もう一つ歌うという有様で、ガラスも割れんばかりに一大合唱団を現出し、棒を持つている者は、それで床を突鳴らし、持たない者は、足で踏鳴らした。これと前後して村上俊雄等男女約五〇名の群衆の一隊は更に組織労働者の応援を得るため、列を組んで平郵便局、平機関区、平駅構内各事務所等に赴き、「闘争に一所に立上ろう」と呼びかけた。その頃、客溜で福島から来た同志が「若松、郡山、白河の同志も闘つているから頑張ろう」という趣旨の演説をすると、群衆は拍手喝采し、幹部が「県内でも県外でも労働者に対する警察の弾圧に対し闘つている、われわれの革命は刻々完成しつつある」というような演説をすると、群衆はワアツと喚声をあげた。経済事務室の窓からは白鉢巻の同志が顔を出して、玄関東側の空地にいる見物人に向い「横暴な警察はわれわれの手で粛正する、明日からは皆さんの温い警察として事務を執る、この赤旗がものをいう」と、交叉掲揚されている大赤旗を指さしながら演説した。また同志が経済事務室で署員に対し「九月に革命がある、そうすればお前達は死刑だ、今のうちにいうことをきけば死刑は免除してやる」というと、辺りの群衆は「そうだ、そうだ」と調子を合わせた。幹部が玄関口に出て群衆に向い「今東京の本部から電報が来た、今日の行動が成功したことに対する祝電だ」と言つて読み上げると、群衆は喚声をあげてはしやいだ。午後七時近い頃雨が強く降り出し、署外の群衆の多くは署内に侵入して充満し、署内の群衆の数は三、四百名に達した。警備事務室の群衆中には「全国一斉に蹶起しているからわれわれが勝つ、米軍が干渉すればソ連軍が直ちに上陸するから、この革命は絶対に成功する」などと真面目に話す者があつた。群衆は中間報告や激励演説を聞く時は合唱をやめるが、それ以外は労働歌を合唱する等前記の喧騒を極めた状態が、多少の中だるみはあるにしても殆んど続いた。
9 午後七時四〇分頃矢吹公安委員が一人で遅れて帰つて来て署長室に入ると、鈴木磐夫が「約束が違うではないか」といい、傍にいた金竜洙が憤然と「連れて来ると言つて連れて来ないのか、この野郎ぶち殺してしもう」と怒号し、火鉢の火箸を取つて振上げたので、伊藤次席がその手を押えて火箸をもぎ取り、鈴木光雄、日野定利の同志もこれをなだめた。山崎公安委員長、猪狩公安委員はこれよりさき来署して二階に居たのであるが、間もなく署長室に来ると罵声を浴びせられ、山崎公安委員長が鈴木光雄等代表幹部に対し「署長被免は重大問題で調査して公安委員会を開いて諮つた上でなければ返答しかねる」という趣旨のことを答え、代表と押問答が繰返された。午後八時過頃群衆の一団が赤旗を持つて歌いながら入つて来て騒いだので、署長が朴重根に出してくれというと、朴重根は「出す出さないはわれわれの方で指揮する、余計な口を出すな」と言い、署長室から一部の群衆を廊下の方に出したが、またすぐ入り込み、更に朴重根が群衆に「署長が出ろと言つているが、みんなどうだ」というと、群衆からは「われわれの税金で建てた庁舎だ、雨が降つているのに出られるか、署長が出ろ」という有様であつた。その頃、玄関口から内部に向つて若い五、六名の同志が「労働者の人民警察ができた、戦えばこのようになるんだ、革命は一日でできるんだ」と呼号すると、室内の群衆は一斉に拍手して喚声をあげていた。また、群衆中から空腹になつたという声があつたのに対し、指揮者らしい同志が受付台に上り「腹が減つても皆に帰られては困る、自分も朝から食べていない、それに今皆に帰られると、残つた者は逮捕される、敵は引延ばし戦術をやつているが、われわれの腹の減るのを待つている、敵は郡山、福島へ応援を頼み、二〇〇名から三〇〇名位の警察官が来る、われわれはそれに対し一戦を交える、首を賭けても自分が指揮をとる」等と激励していた。
10 そのうち午後八時半頃になつて、同志利川鎮吾が逮捕留置されていることを知つた群衆の一部はにわかに騒ぎ出し、「同志を奪還せい」と叫び、これを聞いて馳付けた朴重根が「こちらへ来るな、俺達のいうことをきけ」といい、署長室に馳戻つて代表幹部等に報告すると、代表幹部等はサツと総立ちとなり、鈴木磐夫等が「一人だけ入れるならわれわれをみんなぶち込め」「皆共同で来ているんだから全部をぶち込め」と叫ぶや、一同「そうだ、そうだ」といい、額に青筋を立てた金逢琴と共に静かな口調の鈴木光雄もこの時は淒い権幕で腕をまくつて、「留置するとはもつての外だ、すぐ釈放しろ」と署長に喰つてかかり、多衆の不法な威力を背景に相手方をして応待の如何によつては身体等に危害を加えられるかも知れないとの畏怖の念を起させる気勢を示して迫つた右要求に対し、署長が事態やむを得ず、「一応取調べてから釈放する」と言つて、伊藤次席にその手続を命じたが、これと前後して「同志を奪還せい」の声を聞いて群衆中少くとも四、五十名が共同の意思をもつて留置場前及びこれに通ずる廊下に殺到し、留置場出入口の戸を数名の署員が押えているのを押しあけ、棍棒等でガラス戸等をメチヤクチヤに破壊し、看守巡査織井安吉が拳銃を擬したので一旦ひるんだが、同巡査がこれをおろしてポケツトに入れた瞬間、うち十四、五名はただならぬ喚声をあげて留置場内に雪崩れ込み、同巡査の両手両足に組付き、殴打し、うち一名は実包四発装填の右拳銃を奪取し、他方監房の鍵を叩毀して、利川鎮吾を奪還し、その間他の群衆は署員数名を押えつけ、利川の代りに織井巡査を監房にぶち込んで金具を打ちつけた。この大騒動に拘らず、前記即時釈放を要求した鈴木光雄等はそのまま署長室で交渉をすすめようとしており、暴行を阻止する態度は示さず、伊藤次席から奪還された報告を受けた署長が「そんなことでは仕方がない」というと、そこに居た代表幹部等は「それはお前の方で約束を守らなかつたからだ」と嘯いて、右奪還を認容していた。群衆中では朴重根が署員に対し「この騒ぎも話せば判るので、喧嘩をしかけたのはお前達の方だ」と叫び、「この上群衆を昂奮させると殺されてしまう」という者があつた。昂奮した群衆は柳田警部補を取囲んで「お前が張本人だ」とその頭部を殴打したり、或は新聞記者室廊下下側の壁を棍棒で突破り、両事務室の戸のガラスを棍棒でガチヤガチヤ打割つたり、電灯笠等を打毀したり、机上のインク瓶を叩き割つたり等し、或は棍棒で床を鳴らし足で踏み鳴らし、赤旗を打振り、労働歌を怒号し、罵声怒声をあげ名状すべからざる喧騒を極めた。(署内の暴行喧騒はこの時頂点に達したが、その後も署内に充満した群衆の数は次第に減りつつも、その喧騒状態は引揚まで続いた。なお、前記の如く平地区警察署は自署の警備に手一杯であり、平市警察署側は消防団に市内の治安維持を依頼することにしたが手続がうまくゆかず消防団は群衆の引揚後に約二〇〇名が警備についた。)
11 この奪還騒ぎのため、公安委員達は回答を留保して同署二階刑事室に引上げた。署長室では同志が残つた署員に対し「署長ずるい、革命は近いんだぞ、八、九月にはわれわれの世の中だ、その時はよい署長になれぬぞ」「中共軍が横浜に上陸するんだ」等というと、他の群衆は「本当だぞ、署長、ボヤボヤしているな」と口を合わせた。その頃、客溜の受付台に腕章をつけた幹部が上り、群衆に向つて名を呼び一人の男が受付台に上ると、それに腕章をつけてやつて、「白い腕章をした者が幹部だから、その人がやれと言つたらやれ、やめろと言つたらやめろ、各方面から応援警察官が来るらしい、それに対抗するためだから、心得ていて貰いたい」と署内の多数の群衆に言つていた。また、客溜で幹部から、県内各地や仙台方面等における応援警察官の動向とその阻止を図つていること、飯のたき出しを署に交渉していること等が群衆に報告された。そして、群衆の署内侵入以来引揚までの間、署内の群衆中には或は警察官に対し殺してしもうと怒鳴る者あり、警察官を足蹴げにしたり、警察官を数名で取囲んでのしてしもうと喰つてかかり、或は棍棒を振廻したりして器物を毀し、或は鈴木磐夫は交渉中屡々「この警察が人民のものになるのは一個月そこそこだ」などと革命達成確信の言辞を口にし、又署長や公安委員等に対する交渉は多衆の不法な威力を背景に時折「やつてしまえ」など怒号する等威嚇的で場合によつてはいかなる危害を加えられるかも知れない意味にとられる言動があつて、署長や公安委員等は不安畏怖の念を抱いた。(なお、国鉄労組福島支部闘争委員会の名で同労組郡山分会に対し「国鉄小野新町自動車区のトラツクで、平市署の応援に出かける小野新町署員をいかなる方法でも阻止せよ」との電話指令が発せられた。)
12 午後一〇時頃鈴木光雄等約一〇名の代表幹部等は他の群衆と共に二階刑事室に行き、山崎公安委員長と更に交渉を重ね、即答を求めたが、山崎公安委員長は事実を調査してから回答すると答え、この状態でこれ以上交渉を続けても無駄である旨断つた。その頃階段から二階にも数十名の群衆がおり、そのうちに柴田市議会議員が来署し、双方に対し一応引揚げることにしてはどうかといい、代表幹部等は「俺達の方はやめたいが、警察に誠意がない」と言い、伊藤次席が「夕食も食べない人がいるから、代表だけ残つてかえしたらよかろう」というと、鈴木光雄等は「応援警察官が来るから、俺達だけ残ればぶち込まれる、他の者をかえすわけにはいかない」と言つた。
13 その頃から応援警察官の来着近しとの情報を得て、引揚げる空気が動き出し(応援警察官はその頃平地区警察署に七、八十名来ていたが、続々と翌朝までに仙台、栃木、茨城、埼玉等から三〇〇余名が到着した)、午後一一時頃から二階の群衆はおりはじめ、午後一一時半頃鈴木光雄が山崎公安委員長に対し引揚げる旨告げて交渉を打切り、同人等の指揮で全員約二、三百名が署玄関前道路に各方部毎に四列縦隊に集合し、交叉掲揚していた赤旗をおろし、鈴木光雄が「応援警察官が来ることになつたし、時刻も遅いからこれで解散する」と宣し、日野定利が「血気にはやつて一時に昂奮しても革命は成立たない、一歩後退二歩前進、直ちに解散する、個人行動はとらずに細胞毎にまとまつて帰れ」と指示を与え、群衆はスクラムを組み労働歌を合唱した後、各方部毎に隊列を組んで退散した。
以上の次第で、多衆集合して暴行脅迫をなし、平市警察署を中心とする一地方の公共の静謐を害する危険性を発生せしめ、以て騒擾をなしたものである。
(被告人の所為)
右騒擾に際し、被告人は日共石城地区委員会委員長で本件掲示問題について当初からこれに関与し、とくに六月二七日以降党側の主な代表者として右問題に関し平市署側との交渉に当つてきた者であるが、六月三〇日多衆の威力を以て本件掲示板問題に関する交渉を党側に有利に解決する意図の下に平市署側との交渉に当る考えで多数の群衆とともに待機中、午後三時三〇分過ころ平市署前において先着の群衆と警察官とが衝突した旨の連絡を受け金逢琴らと午後四時ころ平市署前にかけつけ、そのころ多衆の代表者等が署内に入つていて多衆の不法な威力を示し、警察側を脅迫して交渉すること、及び多衆は右交渉を支援することにより右脅迫行為を共にすることを察知し、且つ、多衆が右交渉に際し共同して暴行脅迫に出るかも知れないと思いながら、これをともにする意思で代表者の一人として他の代表者とともに右交渉に当るため金逢琴らとともに署内に立入り、署長室に到りさきに代表者として同室に入つていた日野定利ら五名に加わつた後、被告人の首唱で交渉を開始し、主として被告人が発言をし他の代表者らはこれを補足する方法によりそのころから午後一一時過ころまでの間、前段認定の如く、署長室、刑事室等において前示多衆の暴行により畏怖する本田署長及び平市公安委員長山崎与三郎らに対し、署内外の多衆の不法な威力を示し同人らをして応待のいかんではこの力によりいかなる危害が及ぶも測られないと恐れさせ、掲示板撤去命令の取消及び署長の引責辞職と罷免、負傷者に対する慰藉料の支払等並びに留置人の釈放を要求してその交渉に当り、ことに右留置人の釈放要求即ち、午後八時半ころ前示の如く群衆の一人利川鎮吾がさきに建造物侵入罪により逮捕せられ同署監房内に留置中のことを知るや、前段認定の如く多衆の不法な威力を背景に、代表者らは一斉に本田署長に対しその措置の不当を強く難詰し、相手方をして前記の如く恐れさせる気勢を示して即時釈放を要求して脅迫した際、被告人もこれらの代表者と意を通じ色をなして本田署長につめよりその措置の不当を難じた。そして被告人は右の外午後四時ころから同一一時三〇分ころまでの間に左記の如き所為に出た。
(1) 午後五時半ころ署長室窓外その他署前の多衆から署長室内の幹部に雨が降るから入れろとの要求があつたので、被告人は入つてよい旨連絡員に伝えた結果朴重根らが署前の多衆に連絡すると、多衆中一〇〇名位が女を先頭にして一斉に署内に立入るに至つた。
(2) そのころから右の如く、交渉を支援するため多衆が署内に立入り同署を不法に占拠するのを知りながらこれを共にする意思をも持ち署内に留まり交渉に当るとともに右の事態を放置し、本田署長の再三に亘る多衆を退去せしめるようにとの要求を無視した。
(3) 午後一〇時過ころ伊藤次席が二階にいる被告人に会い多衆の引揚方を求めたところ、被告人は「警察では応援警官を集めているので群衆を帰えすと直ちに自分らが逮捕されるから引揚げさせられない」と答えた。
(4) 午後一一時三〇分ころ署内の多衆を署前に集合せしめ解散引揚げ方を命じた。
以上、被告人は右騒擾において他人を指揮するとともに警察署長をして留置人の釈放をなさしめるためにこれに脅迫を加えたものである。
二、証拠の標目≪中略≫
弁護人らは、本件行動は大衆による正当な抗議運動に対し警察側から不法に暴力を加えてきたのでこれに対し抵抗したもので正当防衛に当る旨、及び本件行動は警察が不法に掲示板の撤去を強行し、言論の自由を弾圧するので、大衆の抗議によりこれを排除しこの自由を守るためになされたもので、超法規的違法阻却事由のある場合に当る旨の主張をするけれども、第二、その二の二、その五の二において説明した如く、右主張は理由がないからこれを排斥する。
三、法令の適用
被告人の判示所為中騒擾の点は刑法第一〇六条二号に、職務強要の点は同法第九五条二項、一項に該当するところ、右二罪は一個の行為で二個の罪名にふれる場合であるので同法第五四条一項前段第一〇条により重い騒擾罪の刑に従い所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で被告人を懲役一年二月に処し、同法第二一条により原審おける未決勾留日数中三〇日を右本刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用を被告人に負担させないことについて刑訴法第一八一条一項但書を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 籠倉正治 裁判官 細野幸雄 裁判官 岡本二郎)
<以下省略>